Cardinal Red

2025.02.10



「……すみません。私は、彼女……愛犬を連れて旅をしている者です。どなたか、いらっしゃいませんか」
麓に立ち、山のあちこちに感じる人の気配に向けて声を張る。隣に行儀よく座る彼女は、硬く緊張して尻尾すら振ろうとしない。
ブラッドムーン・マウンテン。深いワインレッドの空に向かって無骨な山がそびえ立つ、神秘的な場所。話には聞いていたが、実際に目の当たりにすると圧倒される。そしてあの、切り口から赤い樹液を滲み出させている不思議な切り株たち。ここに住む部族たちが守っているというブラッドムーンの木は、話で聞いていた以上に伐採が進んでいるらしい。樹液の色があまりにも鮮やかで目の奥が痛む。急に怖じ気づいてきた。護身用の武器は持っているが、天地がひっくり返ったとしても戦闘に長けた部族たち相手に太刀打ちできるはずがない。蒸し暑いはずなのに背筋が凍ったように冷たくなった。

気配が、いくつかの白い眼光へと変わる。だが、何人たりとも降りてくる様子はない。
どうか私の話を聞いていただけませんか、とでも言葉を続けようとした瞬間、私の目の前に風に乗っているかのようにふわりと、何者かが降りてきた。

茶色のポンチョや長い黒髪をたなびかせ、露出している肌全てを赤く染め、目元を黒、顎や手を白のマーキングで彩った、恐らく初老の男性。
……何も気配を感じなかった。部外者である私を怪しんですぐさま殺すことも容易かっただろうに。

大振りな羽が揺れる耳飾りやベルトに控えめに光るターコイズブルーのアクセントカラーにも目を奪われたが、私が最も見入ったのが、彼の瞳だ。
彼の白目は不思議なことに、濡れたカラスの羽のように黒かった。目元を一文字に彩るマーキングと昏く調和する中で、黒目だけが爛々と白く輝く。

月が人の姿を借りて私の前に現れたのかと思うほどに見惚れる、その姿。
世も末。夢ならばよかったと思うほどに悲惨な出来事には何度も遭遇してきたが、今はまるで幸福な夢を見ているようだった。

「私はブラッディエスト・ウルフ。ここ、ブラッドムーン・マウンテンに住む部族の長だ。旅人よ。貴方の話を聞こう」
心地よいテノールが他でもない、私に対して発されたとき、思わず息を呑んだ。

「は、はい……。このエリアの近くに、我々の旅の拠点を構えることにしました。彼女もそこを気に入ってくれています。ここまで長く連れ添ってくれた彼女のために小屋を作ってやりたい……どうか、木材を分けていただけませんか?彼女は年老いており、決して長くはないのです……」
私が寂しさに眉根に皺を寄せたのを見て、彼女は私の脚に擦り寄ってきた。その頭をわしわしと撫でてやる。

「……驚いた。ウォーロードの面々が軍需物資としてぜひ欲しいと取引を持ち掛けてくることはあるが、軍に属さないただひとりの人間が私のところへ赴いてくるのは初めてだ」
「やはり失礼、でしたか……?申し訳ない。私がすぐにでも彼女の寝床を作ってやりたいがために、気持ちが逸ってしまって……」
「いや、謝らなくていい。いたく感銘を受けただけだ」

「私が貴方の立場であったなら、初めて足を踏み入れる場所、初めて会う人間に恐れおののき、足がすくんで動けないだろう。孤独を恐れず群れに囚われない姿勢……心から尊敬に値する。ぜひ、我々の大切なブラッドムーンの木を彼女のために使ってくれ」
なんということだろう。許諾だけでもありがたいのに、思いもよらない嬉しい言葉まで掛けてもらった。初めて会うのに、いいのだろうか。

……そうだ。何か変だと思ったら。彼女は私と同じく彼と初めて会うのに、なぜかごく自然体のままだ。媚びもせず、必要以上にへりくだることもない。彼女との付き合いは長いが、これはかなり珍しい。
「彼女に触れてもいいだろうか?」
私が快諾すると、彼は自然な動作で地面に片膝をつき、手を差し出す。すると、彼女から前に出て、彼の手にそっと鼻先を擦り寄せた。まるで故郷に帰り、その懐かしい空気に身を委ねているかのような、自然なその仕草。
「凄い……。彼女はどんな人に対しても人懐っこい子なのですが、ただ心の一点だけは決して気を許してやらないというようなことが多いんです。貴方は、一体……」

「きっと私の体に、彼女と近しい血が流れているからだろう……」
「えっ」
「信じるかどうかは貴方次第だが、私は狼なんだよ」

「何かの比喩ではなく、本当に」
そう言って私を見る彼の両目は黒く長い睫毛が掛かって、半月のように光っていた。






彼らの大切な木を文字通り傷付けてしまったのはまだ心苦しいが、彼女だけではなく自分もここに骨を埋める覚悟だ。彼女の大きな体でもゆったりと寛げるこの小屋は、誰にも壊させやしない。

小屋が完成したのち、焚き火で暖を取りながら彼女と食事を取っていると、彼がわざわざ自分のエリアを出て私たちの様子を見に来てくれた。
「素晴らしい小屋だな。お前は本当に幸せ者だ」
本来の肌の色が分からないほど爪の先まで白く塗り潰された大きな手が、彼女のふわふわの首の毛を優しく触る。

以前、宿に泊まろうとしたとき、彼女を見るなり『獣臭い』と言われ、宿泊を断られたことがあった。食い下がろうとしたら、向こうは棍棒を振り上げて暴力をちらつかせてきた。そのときからだろうか。なんだか自分の大切なものを傷付けられても平気でいられるように、全てを冷めたような目で見るようになった。私も、かなり精神的にきていたのかもしれない。今、自分の大切なものを同じように慈しんでくれる彼といるとそのあたたかさが沁みて、尚更そう思う。

人間って、こんなにあたたかいものだっただろうか。
酒が入っているからか、頭がぼやぼやとしている。
彼女の頬の毛を玩ぶ彼の手の上に、私は自分の手を重ねた。骨張っていてあたたかい手だ。私のやや冷たい手が彼の熱を奪っているのが分かる。
彼と視線がぶつかった。全く見慣れない配色の瞳にじりじりと吸い込まれそうになる。何か胸が苦しくなってきて、視線を彼の手に移す。白く塗られた手、赤く細い手首、太い前腕……茶色のポンチョに包まれた逞しい肉体の上を、私の手は滑る。そこから彼の割れた腹筋を通り、大きな金色のバックルに行く手を阻まれた私の爪がかち、と音を立てた。

「……この赤い樹液、一体どこまで塗っているんですか」
……何を言っているんだ、私は……!?
満ちた月の引力で全身の血が脳みそにまで引っ張り上げられているかのように、謎の熱に浮かされて、意味の分からないことを口走ってしまった。
「見るか?」
感情の読めない声で聞かれて、私はどうにも逃げ出せなくなった。
夜道をどれだけ歩いてもずっと後を追ってくるような……そう。彼は本当に、月みたいな人だ。





魚の鱗のように水面が黒く静かに光る広々とした湖。彼がその縁に跪いて水を両手で掬い、そのままぱしゃりと顔を濡らす。それが何度か続くと、水面に薄く網目状に黒、白、そして赤がふわりと溶けていくのがありありと見える。まるで彼そのものがほどけて消えていくようだと思った。

彼の赤い肌、目元の黒いマーキング、羽のイヤリングなど、まるでそれぞれが一枚の衣服であるかのように感じてしまっていたが、彼は実際には旅人の自分よりずっと薄着であった。
彼は私がここにいないかのように無防備に耳飾りを外し、遠慮なく茶色のポンチョをばさりと脱ぎ、ベルトをかちゃりと鳴らしたかと思うと躊躇うことなくパンツと下着を腰骨の下までずらした。
そこからさっと目を逸らす。目のやり場に困り果てる。どこを見たらいいのか分からない。
彼の温厚な仲間たちの元に預けてきた彼女の顔を思い浮かべて、気を紛らわせる。
じっと見つめるのもどこか気恥ずかしいし、かと言って全く見ないのも失礼だと思い、肝心な箇所だけ注視しないよう努めた。

「何か、初々しい顔をしているな。私が赤い樹液を一体どこまで塗っているのか……というのは、分かったのか?」
「……分かりました」
「ふっ、そうか」

彼は、湖に深く足を踏み入れて腰まで浸かり、体を丸め、首元や胸元の赤を洗い流していく。
彼は、決してずば抜けた長身ではない。しかし、逞しく引き締まった肉体がシャープな稜線を成し、まるで連なる霊峰のように気高く見える。

月のように湖面にひっそりと浮かぶ彼の素顔。それを、艶のある黒い髪が細く、乱れながら縁取っている。
彼は湖の縁に肘をつき、髪を掻き上げると、赤く染まった水が彼の腕を伝って体を這った。
「この樹液は、文字通り彼女たちが流した血だ。それを忘れないために、私は毎日欠かさず体を彩っている。しかし私は、こうして樹液を洗い流して本来の肌の色を晒しても、まだ皮膚の表面が赤色で覆われている気がする」

彼は端正な顔を苦痛で歪め、同じ色の手でそれを隠すように覆う。
大切なものが傷付けられたことで感じる、まるで自分の身体の一部が裂かれるような苦しみ、痛み。私には、彼の気持ちがよく理解できる。
現に今私は、大切な存在となった彼と同じように、苦しく痛い。

「貴方の瞳には、私本来の色はどう写る?いまだ、赤いのだろうか?彼女たちの苦悶の色、もしくは、彼女たちを守るために葬った者たちの穢れた血潮の色で……」

自分本来の色を知ってはほしいものの、その色であり続けているのだという確固たる自信がないから。……それが、彼がこんな目が霞むような夜に私をここに招いた理由なのだろうか。
闇で覆い隠されてもなお、貴方は……。
「私の瞳には、貴方だけが持つとても美しい色に映っていますよ。貴方がいまだ赤いと感じるとしても、それは貴方が間違ったことをしているという証明には決してならない。貴方が悩み、迷いながら真摯に選んできた道なのですから」

「……ありがとう」
彼が穏やかに微笑みながら私に差し出した大きな手。私は迷わずそこに手を伸ばす。しかしそれは、温い友好関係を結ぶ握手ではないようだった。

紳士的にすっと手を取られたかと思えば、恐ろしいほどの力で引っ張られて湖の中に立つ彼の腕の中にばしゃりと抱きすくめられる。

息を整える暇もなく唇を奪われた。舌を噛んで引っ張り出されたかと思えば、鋭い犬歯が襞を撫で上げるように柔い舌の上を引っ掻き、鈍い痛みが走る。喉の奥で呻き声を出しそうになると、牽制するように肩に尖った爪をぐっと食い込ませられる。
  濡れたふたつの体がひたり、と吸い付きあう危険な感覚にクラクラした。熱い体躯と冷たい水に圧迫され、このまま熱くなるべきか、それともクールダウンすべきなのか、激しく混乱した。足元がおぼつかず、膝が震えて崩れ落ちそうになるのは、水の中という理由だけではない。

「今まで生きてきて、彼女たちを守り抜くこと以外何も望まなかった私が、貴方を猛烈に欲している……貴方だけの色も、私に見せてほしい」
耳朶に濡れた唇を沿わせたまま、体の奥に届くような特別低い声で囁かれる。おかげで『疼いて』仕方がない。

私には、貴方のような美しい色彩は無い。
今、彼に自分の全てを曝け出したりなんてしたら、きっとそこから彼一色に染め上げられてしまう。
彼の皮膚に樹液の赤が染み込むように、いとも簡単に……。

「決して、獲って食ったりはしないから」

いますぐにでも食い散らかしたいような冴えた目をしている。しかし、私の返事がイエスと決まっていると知っていて、敢えて私から自分を求めてくるのを待っている。

とんだ狼男だ。それも、とびきり愛おしい……。

返事の代わりに触れるだけのキスをした瞬間、背中に回された両手が本能のまま、私の服を引き裂いた。



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