Ash Gray

2025.03.20



日が傾いてすっかりブルーグレーに染まった狭い小屋の中。目に飛び込む色味はぞっとするほど涼しげなのに、室温は骨までカラカラに渇きそうなほど暑苦しい。そこで私は、轢き殺され腸が飛び出した蛙のように手を投げ出して横たわっている。滲んだ汗がこめかみを伝って目に入るが、拭うのも億劫だ。この閉鎖的な空間の外に出る気などさらさらない。私はもう何も、余計なことをするべきではないから。
もう二度と、この人生を心の底から楽しめないと思う。あの夜、はっきりとそう感じた。死を強く願うが、自分の息の根を止める気力さえ残っていない。

「よっ!」
ああ、彼の声の幻聴が私を呼んでいる。それは、小屋の入り口から投げかけられる。赦されないことだと知りながら彼に一目会いたいと願う私の、出来損ないの脳が作り出した幻だ。

「お前、最近付き合い悪いから、この俺がわざわざ来てやったぞ!おら、起きろ!」
彼の高すぎず低すぎない艶やかな声がざりざりとした足音と共に近付いてきたと思うと、急に私の襟首がぐいっと引っ張られて、強引に体の向きを変えられる。視界には、黒と金を基調とした軍服に包まれた男の体、そこにさらりと垂れる長い水色の髪、そして。
あれ、もしかして、これは本物の、彼?
そう気付いた瞬間に全身に満遍なく寒気が走る。続いて目の奥から湧き上がる涙、脳を揺さぶられるような吐き気。
嫌だ。
目を強く食い縛るか、顔を背けようか迷っているうちに、彼の手袋に包まれた生温い両手が私の頬を頭蓋ごとぐっと挟んで固定した。

……ああ、見てしまった。派手な色の髪の隙間から、確かにこちらを覗くものを。
彼の、色が白く美しい顔。その右半分を大きく覆うような煉瓦色の引き攣れた火傷の痕が、いまだ真新しく残る。そして、茹で上がった卵黄のようにくすんだ薄い金色の瞳は、目の前の私だけではなく、どこも見ていなかった。

あ。
喉の奥から嗚咽が漏れて、全身が震え出す。

おお、やっと。
彼の、息が多く混じった溜め息のような、声。
「やっと俺のこと、ちゃんと見てくれた」
彼は嬉しそうにそう言って、子供のように無邪気に笑う。だが、一点だけ。光さえ感じ取れなくなった彼の右目は、一心不乱に私のことを憎んでいるようにしか見えない。そうとしか思えない。そうでなければおかしいと思う。
私が彼に、この傷を負わせてしまったのだから。





私は、あの日の夜、初めて彼と賭け事をした。
酒も入っていたのもあって、私は彼に甘えるように、『私だけを見てほしい』と言った。すると、『じゃあお前が勝ったら、俺はこの右目を灼くよ』と言われた。
この右目が最期に見るのは一生涯、たった一人。お前だけってワケだ……。そう耳元で囁かれて、甘ったるさで脳が延髄からでろでろと蕩けそうだった。この人にだったら光を奪われても構わないと思って、私も右目を賭けた。どうせギャンブル慣れしている彼がいつも通り勝つのだろうと、高をくくって。
ジョイもやっていないのに理性が麻痺して、完全に我を失っていて、この猟奇的な状況に歯止めをかけるものが何もなかった。

結果、どういう風の吹き回しか、私は彼に勝ってしまった。

酔いが醒めたように狼狽えて頭を抱える私に、彼は最初から分かっていたよと言わんばかりに満面の笑みをたたえて軽快な拍手を送った。
彼の行動には寸分の迷いもなかった。闇の中でメラメラと燃える焚き火にスッと近付くと、まるで日常生活のルーティンをこなすように顔に掛かる長い髪を掻き上げて、いつも細められている金色の瞳を挟む上下の瞼をしっかりと指で開き、へたり込んで絶句している私をじっと見つめた。
彼は何も言わずににやりと笑い、そのまま静かに、自身の右目を灼いた。





「なんで俺を避ける?コレのことか?賭け事に恨みっこはナシだろ。俺は、なんもお前のこと恨んじゃいないよ?それに、俺のことを思ってそうやって泣いてくれるのはありがたいけど、それで時が巻戻るワケじゃないし。お前はさ……もう自分のこと赦してやっていいんだよ」

どうして……。
彼の少年のような柔和な表情は以前と何一つ変わっていなくて、それと面と向かっているだけでひしひしと心が痛くて、ボタボタと温い涙が零れていく。
私は彼に恨まれるべき矮小な存在なのに、彼は何も私を恨んでいない。恨まれた方が、私は救われるというのに。

「なあ。こんな辛気臭いトコに引き籠もって、ずっと俺のこと考えてたんでしょ?」
俺もずっと会いたかったんだよォ?
ああ。嫌だ。甘い言葉を耳孔に吹き込まれると、あの夜のことが無理矢理ずろりと引き出されるかのようで、痛い。私が、軽い気持ちで賭けたせいなんだ、全部。
「そんなに俺が恋しかったら会いに来てくれりゃあよかったのに。この怪我のせいなのか、俺の軍の野郎どもも、仲良いウォーロードも、なんかちょっとよそよそしくてさァ」
だ~れも遊んでくれねェんだな、これが。

私はもう本当に、死んでしまいたい。
愛しい人に一生残る傷を背負わせた。それなのに、心のどこかで彼の『唯一』になれた気がして、醜い欲が満たされているのが分かるから。

罪悪感で自分を殺めるほど毒されるか。背徳感で自分を生かすほど愉しむか。
どっちか一方ならば、楽だというのに。
苦しい。体がブチブチと音を立てて引き裂かれそうだ。

「ね。イイコトしようよ。お前もシたいんだろ?」
彼が私の唇を奪う。硬くて丸いものが歯に当たってかろりと音を立て、柔い舌にぽつりと落ちた。彼の爪先が私の喉をつう、と撫で、嚥下を良しとする。自分が自暴自棄な快楽に溺れていいのかすら、彼に導かれないと分からない。自分一人じゃ何も成し得ない。今の私はもはや落伍者だ。

蛇が交尾するようにきつく体を抱き締められて浅ましく舌を食み合う。クスリが効いてきて脳がドロドロにふやけたようになり、口の端から唾液と愚かしい声が漏れる。
彼の手袋の中に手汗まみれの手を乱雑に突っ込んで彼の裸の手のひらに触れると、彼が妖艶に指をびくつかせて笑う。

私は今、人の形を成していない気がする。芯となる骨すらも通っていないような無感覚。
彼の残忍な蒼い風に吹かれなければ、砂と混じり合い、海に散りばめられ、無に還ることさえできない。
私は、そう。灰そのものだ。

彼が私と目を合わせながら赤い舌の上に青い丸薬を置いて、ごきゅ、と音を立てて飲み込む。美しい顔立ちが快楽に堪えられずにエロティックに撓んでいく。触れずとも、その体から暴力的な熱が発されているのを感じる。キスをすればごつごつと歯がぶつかり、舌をぐっと強く噛まれる。首に爪を立てられたかと思うとじわじわと力を込めて気道を絞められる。酸素が薄まっていく。脳をどくどくと揺るがす拍動を感じる。

「俺ッ、お前の一生の傷になれて、嬉しいよ……ッ!」
光を失った彼の目だけが、昏い中で、幻惑のように爛々と輝いて見える。この終わった世界で一番奇麗だ。

このまま死ぬのが、私にとって一番いい。
だが、彼のことだ。このまま絞め殺しては……もらえない、だろうな。



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