時の砂
2025.08.18
彼は、忙しいひとだ。それもそのはず。あのグレート・ルナスの邸宅の番人、そして、召使いをも兼任する敏腕なのだから。
大好きな彼と想いが通じ合って、奇跡的に恋人同士になることができたけど、何もかもが今まで通りだ。あの灰色の壁に囲まれた広間で他愛もない話をして、日が暮れる前には帰る。……わたしは、まだまだ全然満たされない。まるで狙い澄ましたかのように彼のいるあの場所に行けるほどの貪欲な魂を持っているのだから、当たり前だろう。
束の間の休憩の合間に邸宅を抜け出した彼と一緒に、美味しいものでも食べに行きたい。彼はいつも静かにわたしの話を聴いてくれているけど、彼自身の話ももっと聴きたい。もっと、長く。時間が許す限り、一緒にいたい。
わたしの欲望は、尽きることを知らない。でも、女の子ってそういう生き物だと思う。……でも、最近はそれで悩むことも多い。わたしが彼との時間を望むのをぴたりとやめてしまったら、彼も同じように振る舞うようになって、気付いたら関係がぷつりと切れてなくなってしまうんじゃないか、って。
彼は先日、召使いとしての仕事を終えたあと、この広間に立ち寄るから、そこで落ち合おうと言っていた。だからわたしは今、まるで石像か何かのように青い柱に寄りかかって座り、じっと彼を待っている。
こないなあ……。まだかなあ。
傍らに置いた砂時計の紫色の砂が、また、落ち切った。また、ことんとひっくり返す。また、時を刻む。
この砂時計は、お店で見かけて衝動買いした物だ。砂の色も、きゅっとくびれた形も、彼そっくりだと思ったから。一目惚れだった。わたしは二度、彼に恋をしたのだ。
いつも持ち歩いているこの砂時計で時間を計って、遅い!何分待ったと思ってるのよ!とどやして、真面目で仕事熱心な彼の罪悪感を煽ってやろうと。わたしはそう目論んでいる。でも、今のところ、数分の遅刻どころじゃない。深い溜め息を吐いて、また砂時計をひっくり返す。
音もなくさらさらと流れる砂を見ていると、彼の両手に閉じ込められた粗くざらついた青空を思い出す。
この不可思議な世界で時間というものが何かの意味を持つのか、ずっと疑問に思ってはいたけど、少なくともわたしが溺れているこの時間はひどく残酷な意味を含んでいる。
会っている時は短く感じて、時間が有限であることをすっかり忘れてしまう。
会えない時は長く感じて、時間が無限であるかのように思う。
頭上から重たく落ちてくる時の砂に、今にも押し潰されてしまいそう。そんな感覚。
ああ。だめよ。悲しい……。わたし、悲しい。どうしようもない。
顔の左半分で強気にぐっと閉じられていた口が萎んで、顔の右半分で弱気にわなわなと震え出す。
もしも彼が、わたしを避ける目的でお仕事が忙しいって言っているだけだったらどうしよう。
もしも彼が、他の召使いの女性と親しくなっていたりしたらどうしよう。
もしも彼が、わたしのことを何とも思っていなかったらどうしよう。
どうしようもないの。止まらないの。わたし、こんなんじゃだめなのに。
ああ。また。砂が落ち切っちゃう。
ユリシーズさん。わたし、全身がもっとバラバラに砕け散ってしまいそうよ。
グレート・ルナスじゃなく、あなたにしか叶えられない願いなの。
お願い。早く来て。
「エナ!」
澄んだ青空のような声がした。顔を上げると、そこにはまさしくずっと想っていた彼がいた。わたしの方へ駆けるように飛んできた。その太い眉と重たげな睫毛は、申し訳なさそうにへにゃりと下がっていた。
もう、悲しくはなかった。彼にやっと会えた。今のわたしにはその幸せな気持ちしかなかった。
大木のように大きな体にぎゅっと抱きつく。硬い胸元に顔を埋める。あったかい。この広間は寒いとか、暑いとか、特別感じなかったけど、わたしの心はずっと凍えそうだった。
彼に髪を撫でられてそっと顔を上げると、オレンジ色の口角までもがへにゃりと下がって、本当に、心から申し訳なさそうな顔をしていた。
「すまない。すまない。遅く-遅く-遅くなってし-しまった。待たせちゃって、ごめんね」
紺色のノイズの走る手の中では、黒い顔が目と口を細めて右往左往していた。
「ユリシーズさん、会いたかった……」
自分勝手な青い感情は、もうこの胸のどこにもなかった。
「こ-こ-この埋め合わせは必ずするよ。今度、早く上がれる日があるんだ。そのとき、デートでもしよう-しよう!しような」
「……ほんと!?」
ああ。幸せ。
あなたのおかげで、悲しみさえ幸福への架け橋になるように感じられる。
あなたもわたしのように悲観的な面があるわけだけど、わたしもあなたにとって、そういう存在になりたいと思う。
「お-お?な-な-なんだこれは?君の私物か?」
「わーっ!?」
わたしの体を抱き締めてくれていた両手のうち片方がいなくなったと思ったら、わたしの砂時計を手にして戻ってきた。彼の体と同じ色、同じ形。誤魔化しようがない。途端に、顔がぼっと熱くなった。取り返そうと思っても、悪戯にわたしの手の届かない高い位置で砂時計をひらひらと揺らされるばかりだ。
「ちょ、返して!」
「……はい」
彼は満足したのか、あっさりと返してくれた。その顔は、また申し訳なさそうにしょんぼりしていた。
「何か、ひどく寂しい-寂しい-寂しい思いをさせてしまっていたようだ-ようだな。もう、そんな-そんな-そんな思いはさせない。……生きることに悲しみや幸福はついて回るものだけど、寂しさは必ずしもそうじゃないから」
彼のあたたかく黒い手がわたしの両頬を包み込み、そこで彼が囁くように言葉を紡いでくれる。
「私-俺-僕も。寂しかった。会いたかった。君と同じように、いつでも君を思い出せる物がないか探してみたりもしたよ。でも、全く……何も見つからなかった」
「君は私の唯一無二なんだ、エナ」
分厚い睫毛の下に、碧い色の目が見えた。こんなの、初めてだった。これって何かのグリッチ!?まるで彼への密かな想いを自覚したあのときのような、いや、それ以上のドキドキが収まってくれない。肌のきめまでがありありと見えるほどに、彼の顔がぐっと近付いてくるのを目を見開いて見ていた。
平坦なわたしの唇に、ふっくらと柔らかな唇が重なる。
わたしの、ファーストキスだった。
ああ。わたしに残された時間を全てを、あなたのために捧げたい。ずっと、あなたと在りたいと思った。