I See YOU!
2025.05.12
広大で赤い海の水平線を、なぞるようにぼうっと見やる。曖昧な色の島がぼんやりと浮き出るように、そこにある。うざったい煙がそこらじゅうに充満して、その島……『ボス』の秘密の隠れ家は未だよく見えない。
俺の隣に座るエナも思っているとおり……ここに座って仕事してると息苦しくなってくる。それは煙のせいだけじゃないように思う。
空を見上げると、水色や紫、オレンジが混ざった中で、デカい目が瞬きをしてる。それを眺めているだけで、何かキリがないような、どこか終わりがないような、奇妙な気分になってくるのだ。
エナ。俺の傍で小さな両膝を抱え、赤い水面を大人しく見つめる、コイツ。その体にはふたりの人格が宿っている。
ひとりは相手を立てるように丁寧に話すが、時に客観的すぎてコイツ自身の考えがイマイチ読み取れないことも多い。
もうひとりは自分の考えを押し進めるように感情的に話すが、時に利己的すぎてコイツ自身が相手の言い分をどう思っているのかイマイチ掴めないことも少なくない。
どちらも、エナなのだ。だから別に、どっちかにしろなんてことは言わない。だが、ちょうどいい真ん中あたりのコミュニケーションをした方が、コイツ自身も気が楽になるんじゃないかと思う。
……俺が何かに気付いてそれをわざわざ気にするなんてこと、いつぶりだろうかとも思うけど。
「フロギー」
エナが俺の名前を呼び、黒い髪を揺らした。
「もし私がこの世界からいなくなったとしたら、貴方は何をしますか?」
何の脈絡もないが、コイツの中にはずっとあって、それがやっと俺の前に晒されたかのような言葉だった。
「え、……探すよ」
俺はこれを、しっかりと掴んでおかなきゃと思った。
「おやおや。『ボス』を私の代わりに探してくださるということですか」
「いや、アンタを探すんだ」
「私は労働者のひとりに過ぎません。代わりなんていくらでもいると思いませんか?」
「役職の代わりを担う存在がいくらでもいるとしても、そ、その……」
俺は何を言おうか迷ったわけじゃない。伝えたいことは最初から決まっていた。
でも俺は、ここまできて、なぜか言い淀んでしまった。
瞬間、エナがすくっと立ち上がったかと思うと、小さな体はそのままぐらりと傾いた。
「エナ!」
俺は下駄を履いた足がもつれて転びそうになるのも構わず、エナと赤い海の間に滑り込み、その体をしっかりと抱き締めた。
ガッ。
エナだけでも、俺たちが元いた桟橋に放り投げなければ。そう考えを巡らせていたのも束の間。褌を身につけた俺の尻が何かに強く弾かれ、俺たちはボールみたいに空高く飛んだ。
「イテッ!」
俺たちは空中でぐるりと一回転してそのまま硬い桟橋に叩きつけられた。その重く鈍い痛みが、俺の体はエナのクッションになったのだと教えてくれる。
「いってぇ〜……」
首だけ少し上げてエナの軍帽越しに向こうを見ると、赤い海から白い両脚が堂々と生えていた。アイツが俺の尻を蹴りやがったおかげで、俺たちは助かったのだ。
「エナ!大丈夫か!?」
「……はい。申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
「よかった……エナ」
「うるさい!」
俺の胸元に顔を埋めていたエナが、俺の肩を強くぐっとと掴んで顔を上げる。
「言い淀んだくせに……!」
心が軋むようなその声で吐かれる言葉に、胸が激しく痛んだ。
エナの口角が怒りに歪んで、尖った指先が肩に食い込む。だが、みるみるうちにその力は弱まって、その見開いた瞳はまつ毛を震わせた。
「私……私っ……」
『アンタの代わりはいない』って、言ってほしかった……。
そうだよ。エナ。アンタの代わりなんていない。まさにそれを伝えようとして、俺は、言い淀んでしまったのだ。
こんなにも傍にいたいと思うひとなんて今まで誰もいなかった。当たり前に、これからもずっとそうだ。でも俺は、俺を好いてくれるアンタの想いに胡座をかいて、はっきりと言わなくても伝わっていると思ってしまっていた。想いが伝わってるとしても、溢れんばかりのそれは伝えなきゃだめなんだって、分かっていたはずなのに。
エナが、長い下まつ毛からほろりと涙を零す。いつも飄々と動く手指は俺の胸ぐらを力なく掴みながら、静かに震えている。
「エナ」
俺は、エナにこんな辛い思いは二度とさせたくないと思った。
「エナ。ごめん」
考えてみれば、俺みたいなのはいつもこうだ。何も望まないかのように見えてどこか傲慢で、相手に察してほしい、分かってほしいって思ってる。
「ごめんな。俺のせいで」
今のエナは、顔がぼろりと落ちてそこに洞穴ができそうなくらい脆そうに見える。
その小さな両手を、俺の大きな手でそれぞれ包み込む。片方は硬くて、片方は柔い。
エナは、どっちかの人格とかじゃなく、労働者としてでもなく、ただひとりの女の子として俺に必要とされたかったのに。本当に、俺というヤツは……。
「……エナ。好きだ。この世界で一番」
俺には……アンタだけさ。そう言葉を続けた。好きだって言って、それでもう全部伝わってるなんて思わないから。好きだって言うだけじゃ全然足りないから。
ふたりで月を見上げながら『月が綺麗ですね』なんて言うより、隣で輝いてる日の光みたいなヤツに『愛してる』って素直に言う方が絶対にいいだろう。
最初からこうすればよかった。
目の前には、ポカンと大きく両目を見開いている見慣れない顔。その口元には、ニュートラルな一本線さえ表れていない。
なんだ?俺が、こんなにはっきり言うなんて思ってなかったのか?
その唇が何か言おうとして少しでも開いたなら、どっちかとか分かるんだろうけど。今は、俺は目を閉じる。
両手でその小さな頭を包んで引き寄せ、軍帽が俺の頭の上にぽろっと落ちたのを感じながら。
ベージュと赤。そのちょうど真ん中に、俺はキスをした。