箱庭
2025.05.30
風鈴が、からん、からんと鳴る涼しげな音とともに、私の意識はゆっくりと現実に引き戻されていく。
瞼をそっとこじ開けると、床に横たわる私の目の前には、ひとりの男が寄り添っていた。
浅葱色の肌をした、四本の腕を持つ、和服姿の男性。その腕の一対は鐘のような形をした帽子を被った頭の下で枕となり、もう一対は血のように赤い糸を玩んでいる。帽子のつばや袖口には、緑色の光がぼんやりと灯る。
私の寝顔を眺めながら、目覚めるそのときをずっと待っていたのだろうか。一体いつから?
耳に心地良いテノールの男声は、私の全ての理解が追いつく前に、歯列がたたえる黄緑色の光とともにもたらされる。
「おはよう、エナ」
「……おはようございます」
夢から覚めても、また夢か。
近くに置かれていた軍帽を被ると、床に肘をついて体を起こす。軍帽のつば越しに見る彼の口元から一瞬笑みが途切れたのが分かった。もう少し、この特別な余韻に浸っていたかったのだろう。わかりやすい人だ。
『研究対象』とふたりきり。貴方にとってこれは夢のような時間なのだろうが、私は『ボス』を捜し出す使命がある。長居はしていられない。それにしても……。
この、ゆったりとした作りの和室。床は温かみのある畳。見上げると、木の縁で規則的に区切られたような天井。ここは、一体?
「申し訳ありませんが、この場所は何処なのか、伺っても?」
「私のお家だよ、エナ。一旦あの喧噪から離れて、一緒にひと息吐けたらと思ってね。大丈夫だよ。何も、獲って食ったりなんてしないから」
私と同じように体を起こした彼は、大きな左腕になっている腰から下を、深緑色の袴を畳み込むように折りながら低く笑う。
帽子で遮られているから、私からは彼の目は見えない。だが、私には分かる。絶え間ない視線を注がれているのを感じる。彼はほんの一瞬も、私から目を離していない。
怖くはないが、私への想いをこんなにも拗らせて……愚かな人だと思う。
からん、からん。
私を起こした鈴の音が再び耳の奥を揺らし、私の目を引いた。
障子の傍に吊り下げられた、風鈴。
外見は深緑色の鐘。舌は浅葱色の輪。彼の着物のような芥子色の短冊は赤い糸で結ばれ、舌からぶらりと垂れている。
まるで、あの世界で見た彼の小さな眷属、いや……彼そのものだ。
「風が出てきたね。そろそろ、雨が降る頃だろう」
窓も開いていないのに、突風に吹かれたように風鈴がからからと揺れ出す。
外も見ていないのに、彼が全てを見ているかのような口振りで言い放つ。
芥子色の短冊がはたはたとはためき、翻ると、その裏側の緑色で鮮烈に目が痛むほどだった。
外からぽつ、ぽつと、誰かが語り出すような音がしたと思うと、しとしとと雨が降り注ぐ音がした。そんな……まさか。
「エナ。外へ出よう。君にずっと見せたかったものがあるんだ。きっと驚くよ」
「……もう、充分に。驚かせていただいていますが……」
自分の掠れた声なんて、自分でも聴くのは初めてだった。
少し感づいてはいたが、外からこの彼の家を見て確信した。かなり大きな、日本家屋だ。彼はいつからここに住んでいるのだろうか。広くて、静かで。ひとりで住むには、寂しそうだ。
家のすぐ傍には美しい日本庭園があり、中央の池にはたくさんの錦鯉がいた。朱色の体を滑らせるように泳いで、私に餌を乞いに来る。
「なんと……」
「かわいいね」
「そうですよね。一生懸命、口をぱくぱくと動かして」
「本当に、かわいい」
唐紅色の番傘を持つ彼の顔を見上げると、思った通り。私を見ている。彼はここの主だというのに、彼らのことを微塵も見ようとしない。
自分の肩口がしっとりと濡れるのにも気付かず、私との相合い傘に浮かれている。地面に這わされた彼の五指が、数センチ浮いて見えるかのようだ。
「雨天時の傘の中では、人の声が最も綺麗に聞こえるそうだ」
本当に、綺麗だよ……。
彼の染み入るような低い声が、触れそうな距離のまま、耳元で発される。番傘を叩く雨音なんて、何ひとつ邪魔じゃない。彼の声が耳の起伏に沿って流れ込み、胸の奥を揺らす感覚すら感じる。……悔しいが、彼の言う通りかもしれない。
……私は、やっと夢から覚めたのかもしれない。
ここは、あの世界とはまるで違う。
『自分はボスだ』と突然名乗られて辟易することもない。高熱が出たときの夢のような世界で、突拍子のない中をがむしゃらに突き進まなくてもいい。
全てが、誰かの叫び声や奇妙な音声とは違う切ない響きを持っている。何もかもが、自然に調和するように動いているのだ。
しかし、ここでも私は何か、『不人気』なような気がしてくる。
ここでも、何かが足りない。この胸に、大きな空洞がぽっかりと口を開けているようだ。ここに来たとて、私は……。
エナ。いや、もはや私は、エラーだ。
「おや。雨が上がったようだね」
彼が番傘を畳むと、日が差して明るくなり始めた視界に美しい色彩が飛び込んだ。
「……あれはっ、なんですか」
「ああ。そうそう、あれがいちばん君に見せたかった……」
雨で湿った地面を蹴って、小走りでその色彩の元に向かった。
「……きれい」
私の目の前には、手鞠のように丸くぎゅっと集まった色鮮やかな黄緑色の花々が、胸を張って咲き誇っている。
よくよく見ると、その端々は白っぽかったり、中にはこれから花開く途中であろう小さな蕾もあった。
「きれいだよね」
「また、私の話ですか」
「君が美しいと感じるものを、同じように美しいと思っているだけだよ」
……先程、池にいたときも思ったのですが。
「貴方。私以外のもの、見えているんですか」
「いいや?君しか見えていないよ」
何かの、比喩ではなく。
そんな、ことって……。
這って縋るように、彼の冷たい頬に触れた。初めて、触れたのだ。一日中、ずっと傍にいたのに。もっと触れてあげられたのに。
「エナ……?」
彼が目深に被った帽子をそっと捲ると、その煌々と光る緑色の目はぶれることもなく真っ直ぐに私だけを見ていた。
家具が少なく殺風景な、家の中。指先の感覚だけでできる、あやとり。全て附に落ちた。
こんなにも一途で優しい人が、私の目に映るものを通してしか世界の美しい色彩に触れられないなんて。あまりにも、酷すぎやしないか。
同じものを同じように見て。同じ方向を見やって生きていきたいというのは、私のエゴなのだろうか。
いっそのこと、エゴと言われようと構わない。私は心の底から、彼のことを哀しんだのだ。
彼の目を見ているだけで、目にじわじわと涙の膜が張ってきて、堪えられない。彼はあやとりを止め、糸が絡んだ指先で私の手にそっと触れた。
「エナッ、どうしたんだい……?」
その目をもってしても、私の心までは、見えないでしょう。
貴方は私を、長い、長い時間を費やしてずっと見ていたわけだけど。貴方はまだ知らないのだ。私のこの心情を。
襟首に両手を伸ばし、強く引いて。ずっと私を追ってきたその目を一瞥してから、唇を奪った。
柔くて、湿った息が吐き出される唇。私とは大きさも形も違う。
私の背後に回された手。見ていないけど、私には見える。糸が絡んだ指先が惑って、ぐるぐると悩んだ末に、背中をすっとひと撫でする光景が。情けない、大人の男の手だ。
本当に、愛おしい。
涙が頬を伝う前にその指が拭っていき、そのまま顎に添えられて何回か軽く口づけられる。
「……愛しています」
目と目を合わせて、私は彼にそう言った。
「……私も愛しているよ。エナ」
ニヒルではない、彼の温厚な笑み。やっと、見せてくれた。
今なら分かる。この人を自分だけが見守っていたいという気持ち。
この人もきっと、そうだったのだ。ずっと。