蚊帳の内

2025.06.25



裸の肩や腕を滑るように撫でていく風が、沈んでいた私の意識を揺り起こした。ゆっくりと目を開けると、昏く紺色がかった空間の中、ベージュと朱……両の腕が白い寝床に気怠く投げ出されている。
何か、長い夢を見ていた気がする。もう朝が来たのかと思った。あまりにも涼やかな空気。ここはあの世界のように、鬱陶しくも、息苦しくもない。
遠くでコロコロと軽やかに鳴く蛙の声、それに、耳に心地良い鈴虫の声がする。彼らは、姿を見せないだけなのか、声だけの存在なのか、定かではないが。
ひとつ欠伸をしながら上体を起こす。寝床を覆う、羽衣のように薄い蚊帳。これに意味があるかどうかはわからない。未だ、ここで血を吸う羽虫を見たことがないからだ。だが、私が快適に眠るために、彼がしてくれた厚意……それ自体に意義があると、私は思う。

隣で彼が眠っていないのは、わざわざ見なくても分かる。彼のぬくもりがあった場所には芥子色の着物と、小豆色の肌襦袢が無造作に脱ぎ落とされたままになっている。
……目覚めてからずっと、そこに静かな気配を感じていた。ふたりしか身を寄せ合えない質素な寝床。それを覆う蚊帳を挟んだ、すぐ傍。

青碧色の、大きな裸の背中があった。少し垂れ気味になったその頭を覆う鐘のような形の帽子の下からは、月明かりより眩い緑色の光が溢れるように漏れて、ごつごつと骨が浮く無骨な肉体を浮かび上がらせる。
なんと美しいのだろう。もっと近くで見たくて、体を囲む柔らかな布団を静かに剥いで、ゆっくりと這うようにして……鼻先が蚊帳に触れそうなほど、彼に近付いた。

ああ。彼が飽きもせずにずっと私を見ていた理由が、今ならわかる気がする。私を見ていないときの、私に見られているのを知らないでいるときの愛おしい人なんて、何度でも見たいに決まっているから。
……ふと、気付く。彼の背中の、左側。遠くからでは見えなかった。
糸のように細く朱い傷がいくつかあるのに気付いて、思わず指先の尖った右手をきゅっと、胸元で握り締めてしまった。

先程まで思い出しもしなかった昨晩の記憶が、いとも簡単にずろりと引き出される。
彼のこの大きな背中に腕を回し、回りきらないまま必死に抱き締めていた。
彼の硬い腕と腕の間に両腕をそれぞれ挟まれ、その芯に通った骨にごりごりと圧迫されて鈍い痛みが走った。彼の体の重みも相まって、私の体は何度もひしゃげそうになったのだ。それで、この広い背中を何度も……。

突然、膝の上にぬくもりと重みを感じた。赤い糸が絡んだ大きな彼の手が蚊帳の裾から入り込んできたのだ。思わぬことに驚き心臓が跳ねるも、関節の角張りを確かめるようにすりすりと動くその手を、ただ見ていることしかできない。

「盗み見とは、関心しないね。エナ」

彼がこちらに向き直る。目深に被った帽子の下で、にぃ、と剥かれた黄緑色の歯列が怪しく光っていた。
彼が四本の腕で器用に蚊帳を捲って、床を大きな五指でじりじりと蹴って。私のいる寝床に入ってきた。目の前には、何も視界を妨げるもののない彼の姿。彼の裸の胸元には、彼に言われてたどたどしく付けた薄い色の所有印が残っていた。息を呑む私とは対照的に、私の顔には彼の静かな息が掛かる。
宙に浮く首と、朱色の体の間。そこに手を差し入れられ、無い喉を撫ぜられると、あ……と情けない声が漏れ出た。

胸元をとん、と押されると、すっかり力が抜けてしまっているせいで、私は簡単に寝床へと転がってしまう。彼の脚は二本に分かれていない。だから、互いに顔を近付けるにはこうやって、私が脚を開かねばならない。膝が袴の下に入り込んで、彼の裸の腰にひやりと触れた。
彼の衣服が私の体の下敷きになってしまっているのに気付いた。皺になってしまうかもしれない。汚れてしまうかもしれない。でも、そんなことを気にしている余裕はお互いになかった。

彼の吐息が、湿りを帯び始めていた。それをもっと感じていたくて自分から彼の頭を押さえて口を近付けさせると、私の平坦な唇と彼の薄く柔らかな唇が重なった。何度も啄むように口づけられ、それだけで瞼が痺れたようにぴくりと動いてしまう。耐えられなくて大きく唇を開かせて舌を食む。暗くても分かる。青紫色で、肉厚で、潤んでいる。咥えたまま、手綱のようにぐっと引く。低い声が交じった荒い鼻息が愛おしい。
私の体の脇にあった四本の腕が、急に私の頭や肩を掴んで固定する。身動ぎすると彼の指に掛かった糸がするすると這って、体の表面を擽る。そのまま開きっぱなしの口に乱暴に舌をねじ込まれる。何もない口内を隈無く探るような舌の動きのままに、浅ましい声が出てしまう。口の中がいっぱいで、呼吸さえ上手くできない。過剰に分泌された唾液を、溺れながら飲み込む。汗が渇いてべたついていた体が、またじっとりと濡れ出す。ああ。また、これから、寝苦しくなる……。

彼の顔がそっと離れると、彼の舌先と私の唇の間には透明な糸がきらりと伸び、ぷつりと切れた。
私をしっかりと見つめる彼の緑色の眼と視線がぶつかった。それは、少し紅潮した青碧色の最中で、刃のようにぐっと細められている。
彼と深い仲になってから、初めて出会う彼ばかり見る。彼もきっと、どんなに長く研究し尽くしても分からなかった私をたくさん見てきただろう。
でも、今夜も、見飽きるほど見て、見せて。
目で強請って指先の糸を手繰ると、彼は喉を鳴らして嬉しそうに笑った。



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