馬脚を露わす

2025.07.18



ご。がっ。と、鈍いような、鋭いような音が絶え間なく響いている。その音からは少しの疲れも感じ取れない。手加減を感じる瞬間さえない。
細いモノトーンの背中が、両肩に掛けられた赤茶色の棒にそれぞれの腕をしなやかに預けたまま、片足を何度も何度も蹴り下ろしていた。

私は、偶然にも目撃してしまったのだ。優しい親友が、誰かを一方的に蹂躙する様子を。

それは、紛れもなくこの場所で起こっていることなのに、まるで夢を見ているように信じられなかった。
確かに彼女には、苛立って足を踏み鳴らしたりするアグレッシブな一面があることを私はよく知っていた。でも、誰かに対してこうやって実際に暴力を振るっているのを見ることになるなんて。

きっと、彼女の足元で転がって動かないままの誰かの言葉が、彼女を深く傷つけたのかも。それで彼女は、神々の身体言語すら紡ぎたくなくなったのだろう。
混乱した私の頭の中でそんな風に考えを巡らせないと、優しい彼女が他害行為に走ることに納得がいかなかった。

こうして、彼女に駆け寄って止めるべきか、このまま立ち去って何も見なかったことにするべきか考えている間にも、彼女はまるで平らな床の一点を踏みつけるかのように片脚を振り上げ続ける。
……怖い。いつものメルシーじゃないみたい。
目元が強張る。喉が渇いてくる。胸がドキドキする。左右で色と形の違う手のひらをきつく握り締める。
メルシー。一体どうしちゃったの。

「エナ。そこにいるんでしょう」
急に、彼女が動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返る。
「隠れてないで出てらっしゃい」

心臓がどくりと鳴る。足元の血の気が引いていくみたいに寒くなった。
隠れてるつもりはなかった。でも、足の裏が地面と引っ付いてしまったみたいに足が固まって動かなかった。
「……メルシー。どうして……?」
でも、目の前にいるのは紛れもなく私の親友なのだ。私は最初、彼女のこの背中に気付いて、笑って声を掛けようとしたのだ……。
私は恐怖を振り払って彼女の傍に歩み寄った。

「エナ。やっぱりそこにいたのね」
白、黒、そして鮮やかな赤色で彩られた仮面。見慣れた親しい顔だけど、いつもと違う。でもそれは単に、仮面の赤とは違う色味の赤が頬に滲んでいるからだけではない。彼女の顔の位置がいつもより高く、見上げるほどだったのだ。彼女は大きく細い影となって、私の目の前に立ちはだかっている。
こつりと音がして地面を見下ろすと、彼女の足元には黒いハイヒールが光っていた。艶のある漆黒にべっとりと付着した赤が、彼女が刻むステップに合わせ、彗星の軌道のように……地面に長く尾を引いていた。

「エナ。私はこうするしかなかったのよ」
言葉が、通じなかったから。

彼女のハンドパペットたちはまるで私をあやすようにぱくぱくと口を開閉するが、その表情は怒りどころか何の感情も読み取れない。
何か、すっきりとしている、というか……。

「……私が怖い?エナ」
がらん。赤茶色の棒が地面に落ちた。彼女の両肩がゴキゴキと鳴って、長いこと棒に重みを預けていた彼女の両腕は滑るようにだらりと垂れた。そのすらりと長い両腕が下ろされているのを、初めて見た。
彼女はそのまま、ハンドパペットまで外してしまった。目の形や口の表情まで変えていたハンドパペットが少しも動かなくなり、彼女の爪まで美しい両手が露わになる。
「でも、それだけじゃないよね?」



「ちょっと、興奮したんでしょ」
膝を曲げ、体を丸めて、彼女が私の耳元でぼそりと囁く。
体がびくりと跳ねる。
「私にはわかるわよ。貴方の体が、言葉よりも早く伝えてきてるから」
膝までもがふるふると震え出す。
さらりと垂れて頬を擽る黒い髪。そこから危険な甘い香りが漂ってきたような気さえして、変な心持ちになってきた。

彼女がその手で仮面を上へと押しやると、初めて見る彼女の白く尖った歯が現れた。
「私が人を蹴り殺してるところを見て、どう思ったのか。その体に訊いちゃおうかな……?」
彼女が、私の両腕を掴んだまま、唇を奪った。
平らな私の唇を、花びらのように柔らかい唇に何度も食まれているうちに、いつの間にか私も目を閉じて彼女の両腕を掴んでしまっていた。赤く長い舌でべろりと唇を一閃されたかと思うと、かり、と耳の縁を甘く噛まれた。
「やぁ……っ」
私が思わず出した声を自分の手で塞ぐ前に、彼女の指がそっと制した。

そうだ。私は、彼女が人を蹴り殺しているところを見て、恐怖した。でも、興奮もしていた。彼女は全部お見通しだったみたい。
彼女は、優しいひとだ。私のためならば、どんな想いや欲望も隠し通してきたのを、私は知っている。でもその一方で私は、彼女がありのままを全て私に曝け出してくれるのをずっと待っていたのだ。
優しいけれど、その内に暴力性を秘めた大好きな女性に、遠慮無く乱暴に扱われてみたかった。

彼女の舌に吸い付いて甘い痺れを感じながら、地面に転がる誰かを見やる。
貴女になら、あんな風に壊されてもいいわ。メルシー……。
よそ見するなと言わんばかりに細いヒールで軽く足の甲をぐっと踏まれて、無い喉の奥で情けない声が出た。



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