影を送る

2025.08.04



「待って」
普段、相手を立てるように丁寧に話す男声。その声が今、私の背に向けて短い言葉を放った。どうしてもそれは、無慈悲に無視できるようなものじゃなかった。静かな風に揺れる私の袴の裾が、この乾いた大地に固く縫い止められてしまったかのように……私の心はびんと張り詰めた。
首だけで振り向いて、目深に被った帽子の下でその足元を盗み見た。

赤とベージュ。彼女の華奢な両脚が見える。この世界には、燦然と輝く太陽は無く、私たちの足元に暗い影ができることはない。それなのに私は、彼女のその黒い靴の底で存在しない自分の影法師をぐっと踏まれている気がしてならなかった。前に向き直り、黙って逃げ出すことさえできないのだ。
彼女と目が合うのが嫌だった。今は、歯を剥いた奇っ怪な笑みを取り繕う余裕さえなくて、私は……酷い顔をしているだろうから。

「どうして。私を避けるのですか?どうして、私と目を合わせてお話ししていただけないのですか?」
私は……貴方のことをもっと知りたいと思っているのに。

今までに一度も聴いたことのない、その脆い響きを持った声に、ハッとした。
帽子越しに見える彼女の震える赤い唇が静かに萎んでいき、ベージュの唇がたわみながら悲しい声を絞り出す。
「……あ、アンタも、……アタシが、嫌いなの……?」

まるで胸郭がひしゃげそうなほどに呼吸が苦しくなった。もう自分のことなんてどうでもよかった。顔をしっかり上げると、涙を流せない彼女の悲哀に満ちた表情が見えて……そのまま私は五指で砂を蹴って彼女の元に駆け、その小さな体を強く抱き締めた。
震えるその両腕が、回りきらないまま私を抱き締め返してくれた。ずっと、待っていたと言わんばかりに。
「ごめんね。エナ」
私は、醜い自意識のために、最も大切なひとを傷付けてしまったのだ。世界が彼女を嫌っても、私だけは絶対に、彼女を愛し続けることを心に誓ってきたのに。

鮮烈な光のような彼女に強く惹かれたあの日のことは、昨日のことのように思い出すことができる。
もはや、彼女の研究は私の人生、生涯、いや、命の一部であった。彼女を研究するために生きてきた。だが、私の意識はいつまでも『研究の第一人者』であり、それ以上でもそれ以下でもないという、俯瞰した思考のまま変わらなかった。
それは、闇の煮凝りのように醜悪な私なんて、眩い彼女に何もしてやれないと決めつけてしまっていたからだった。だから、やっと会うことができたというのに、彼女をことごとく避け続けた。だがそんなのは、彼女のことを想っているようで、自分のことしか考えていない行動だった。

「……君と会えた、その後。私はどうしたいかって……実は何も考えていなくて。どうしていいか分からなくて、君を避けてしまっていたんだ」
体を離して、彼女の宙に浮いた両肩を優しく掴む。その幼さを残す顔は、悲しんではいない。目元の色を濃くして、私の愚鈍さに対して怒っているのが見てとれた。私がずっと見てきた、いつもの彼女だった。

「でも、やっと分かったんだ。当たり前のことだったから気付けなかった。……私はずっと、君と一緒にいたいんだって」

自分に無い光に愛おしさを覚えるのは、皆そうだ。しかし、自分の中にもあるようなありふれた影に対しては、誰もが目を背けたくなるだろう。
でも、私は……彼女の影にまで寄り添ってやりたいと思う。それが、意気地が無く大人げない私が、これから貫いていく愛の形だ。

「私、てっきり嫌われてしまったのかと思っていました。……いけませんよ。これからは私だけじゃなくて、自分自身のこともよく見ていくべきなんです、貴方は」
これからはふたりだから、大丈夫ですよ。

四本の腕に囲まれながら、頬を緩ませて笑う少女。彼女に何か言いたいのに、胸がいっぱいでどうしようもない。
つんとする鼻の先をくっと上げ、奇妙な色彩の空を見上げる他ない。
影の無い世界からどこかに、影を送るように。



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