お前を離さない

2020.03.07  2020.07.02



無機質な色のキングサイズのベッドの上で、魔王様は私の膝を枕にして眠りこけている。
静かな寝息を立てているその顔立ちは、メビウスにいたときよりも大人びてはいるが、どこか幼さも残していた。その美しい顔にかかる癖のある赤茶色の髪は、ベッドの傍らのオレンジ色のライトに照らされ、フィルターをかけたように赤みを増していた。
小さなテーブルの上に置いてあるデジタル時計に目をやる。日付が変わったばかりだった。彼に膝を捧げてもう数十分も経っている。さすがに彼の寝顔を見るか時計を見るかしかできないのは、いささか退屈だった。

今の状況に至る経緯は以下の通りだ。
ベッドメイキングを終えると、シャワーを終えた彼が尊大な動作でベッドにどかっと腰掛け、疲れを労えと言ってきた。
その命令に対する最適解を考えているうちに、彼がベッドに座っていた私の膝に頭をもたせてきて…といった具合だ。

全く困った魔王様だ。というか、3月の初めだというのに、ワイシャツ一枚にスラックスだけなんて寒くないのだろうか。見ているこちらが寒くなる。温かい湯を浴びたい気分だが、膝に載っている重しのお陰で少しも動けそうにない。元々、彼の次にシャワーを浴びようとしていたのに。ふと、江戸時代に行われていた拷問の図式を思い出して笑いそうになる。

できることが限られている私は、ふと顔を上げて私たちの寝室を見回してみた。光源がライトのみであるため寝室はとても暗いが、私たちが休息をとるためだけに使うのにはもったいないほど広く、そして洗練されている様子が見てとれた。他人事のように、凄いところだな、と思う。
私たちが住むこの豪邸はとても広く、部屋数も無駄に多くあって、まるで彼がいた医療刑務所のようだと思うときがある。
生命の営みの気配が一切しない、冷たい場所。きっとここは、私を閉じ込めておくための牢獄なのだろう。
私はそれでいいし、むしろそれがいいのだが。

彼は、全てが自分の思い通りでないと気が済まない、子どもみたいな人だ。物には執着しないんだ、と言いつつも、全ての所有物が自分の手の届くところにないと感情を暴発させて癇癪を起こす。本当に、感情をどこにぶつければいいのか分からずに泣く子どもみたいな人だなとしみじみ思う。
彼と私が同棲し始めたのも、私が今まで働いていた職場を辞めて家事に専念するようになったのも、全て彼の思し召しだ。彼の命令は絶対だから。

また、彼は、自分より劣る飼い犬の手綱を片時も手放そうとしない困った人でもある。
彼は現実へ帰ってきてからIT関係の企業を立ち上げたが、稼いだ金を私に管理させるなんてことは一切ない。だが、気が向いたときには私に高額なアクセサリーやら服やらを数多く買い与えてくる。飼い犬に餌をやる感覚でだ。それもきっと、気持ちの面でプレッシャーを与えて私を傍に引き留めるためなのだろう。当の本人は重いことも面倒なことも嫌がる癖に、私にはそういうドロドロしたものを悪びれもなく押しつけてくる。
大人ぶって余裕もないままに必死に私をつなぎ止めて、疲れないのだろうかといつも思う。
でも、彼はこうやって自由気ままに、自己中心的に振る舞っているから、自分が疲れているという自覚はないのだろう。

無自覚のままでこんなにニンゲンっぽいことをするなんて。
とんだ魔王様ね。かわいい人。

彼が寝ているのをいいことに、私は彼の頭をそっと撫でる。
眠気で体温が高いのか、つむじの辺りがとても温かかった。
こういうのもたまにはいいかもしれない。

「うーん…」
彼の眉間に皺が寄って、目がぎゅっと強く閉じられた。

あっ…調子に乗ってやりすぎた。起こしちゃったか。
機嫌が悪くなることを見越して私は言う。まあ、ここらへんは慣れだ。
「お、起こしちゃいましたね、ごめんなさい」
眉間に皺を寄せたまま、彼がゆっくりと目を開ける。ライトが眩しいのか、オレンジ色の光が映った茶色の瞳を挟む睫毛が忙しく動く。両手でそれぞれの目を擦ると、うぅ、と唸り声を上げながら大きく伸びをする。彼は身長が高いので、腕を伸ばすとさらに体が大きく見える。
「ふぅ…布団も掛けずに寝てしまったな」
息を吐いて私の方を見た彼の瞳に、不機嫌の色は伺えなかった。

おや、珍しい。今日はちょっとラッキーな日だな。今日はまだ始まったばかりだけど。
「そうですよ。もう日付変わっちゃいましたし、ちゃんと布団掛けて寝ましょう」
「ああ、そうだな」
そう言いつつも全く退いてくれる気配がない。
「あと私、シャワー浴びたいので…退いてもらってもいいですか?」
「断る」
断固として拒否された。同時に彼の頭に添えていた手を片手で乱雑に掴まれる。うわ、と声が出そうになった。これでは逃げられない。
「ええ~…」
シャワーも浴びに行けないし、ベッドにも入れないし、踏んだり蹴ったりだ。
「シャワーなんて朝起きてから浴びればいいだろ」
「まあそうですけど…もしかして私が離れるのが嫌とか?」
機嫌が悪くないのをいいことに、私は言いたい放題だ。
「燃やすぞ」
手に力が込められる。しかし、手加減されていて決して本気ではない。
「いててて…ていうかなんですかこの状況?江戸時代の拷問でこういうのありましたよね?」
「『石抱いしだき』…か、滑稽な例えだな」
彼は喉の奥でくつくつと笑った。彼の笑い声が低く響き、膝の骨に伝わっていく。

突然、私の手を掴む彼の手が離れる。
彼の顔から表情が消え、両目が蛇のそれのように鋭く細められた。

「…顔も知らない輩が、俺からお前を奪う夢を見てな」
彼は、暗く高い天井を見つめている。

「効率よくお前を利用してやれる優れた男は俺だけなのにと…そう考えて憎悪の感情が止まらなかった」
彼は睫毛を伏せてから、私の目を見る。

「だから…どこへも行くな」

へ…?
私は、貴方以外とどこかへ行くつもりはさらさらないけど…。

「俺より劣る輩とは一切関わらない。今後一生俺だけに従う…お前に求めることはこれだけだ」

今までと特別変わらないじゃないか!
そう思いながら、私ははっきりと言った。

「今までもそうだったし、これからもそうなのはずっと続いていくじゃないですか。私が信用できないんですか?」
「お前は従順で聞き分けがいいから信用している。だが…一応忠告しておいただけだ」

メビウスではすぐ感情的になって自分から周りの信用をなくしていた癖に、こんな小娘のことは信用しきっているんだ。だから、私を奪われる夢を見ただけで、それが現実になってしまわないだろうかと酷く狼狽している。
やっぱり、かわいい人。

「私は貴方のものであって、それ以外ありえませんよ」

彼の望む言葉を、彼が望むだけ。
何をしても満たされない空虚な心が満たされたように感じるまで、何度でも。

「私が現実に帰ってきた目的は、貴方と共に在ることでしたから」

彼は目を見開いて驚いた表情を見せたと思うと、そのまま体を震わせたのが分かった。
「そうだな…」
歓喜の震えだった。

「お前ならそう言ってくれると思っていたよ。流石、俺の選んだ女だ」

私はその言葉を聴いて微笑んだ。

お互いの過去もろくに知らないまま。
お互いの未来は仄暗く、良くも悪くもならない自覚があるまま。
でも、今の私にはこの人が必要で。
この人も今は私を必要としていて。
今幸福に似たものを感じていれば、この世界で生きながらえている意味があった。

今彼の傍にいられるなら、それで。

何も持ちあわせていない女をつなぎ止めようとする彼も大概だが、よく考えれば私も倫理や良心が欠如した男に付き添っているのだから、やはり彼の言った通り、お互い似たもの同士の『同類』だとつくづく思い呆れてしまう。

呆れるほど、彼との時間が愛おしい。

「寝るか」
彼が満足そうに目を閉じた。
「ちょ、ちゃんと布団掛けて寝ましょうって言った傍から二度寝するんですか?その前に退いてくださいよ」
「今の俺は機嫌がいいから無理矢理退かしても許してやるよ」

「全く貴方は…」
膝にのしかかる重みさえも嫌いじゃないと思い始めている。
退かせるわけがないじゃないか。

「お前も早く寝ろよ」
体を方向転換させ、私に背を向けた魔王様がしゃあしゃあと言う。

貴方の我が儘に付き合ってたからこんな時間になったんだけどね…と心の中で呟きつつ、微笑む。

愛も倫理もなくて、奇妙な関係だけど。
これから私たちがどうなるかなんて誰も知らないけど。
私はこの人と地獄に落ちたいと思う。

「お休み」
彼はばつが悪そうに言った。

私はふふ、と笑い、彼の耳元に唇を近付けて言う。
「お休みなさい、永至さん」
返事はなかったが、その背中はどこか自慢げだった。

次こそは、いい夢を。



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