囚われていたのは

2020.05.26  2020.11.06



俺は自分の目を疑った。ここは仮想世界メビウスか、はたまた夢ではないのか。本当にここは現実なのか。
地面がぐにゃりと歪み、隆起するような感覚に襲われる。道の真ん中で立ち尽くす俺を避けて歩く人の群れも、どこか現実味がない。談笑する声も、靴が道を踏みしめる音も、まるで遙か遠くの場所で響いているようだった。

薬指に指輪を嵌めた右手の拳を強く、強く握り締める。手のひらに爪が食い込む。鈍い痛みが走る。夢が覚める気配はない。ここは紛れもなく現実なのだ。
まるでここにいる俺をないがしろにするようなふざけた事象が、少し離れたところで繰り広げられていた。
卑しく鼻の下を伸ばした下賤な男どもが、店の前で俺を待つ奴を取り囲んでいる。男の一人に至っては、薄汚い手で奴の手首を掴んでいた。

お前ら。一体誰の女に言い寄っているのか、分かってるのか。

体中を焼き尽くすような怒りが唸りを上げ、全身の血管をギュルギュルと巡る。俺の傍を通る人の群れが、この熱を感じているのではないかと思うほどに、俺は激しい感情を抱えていた。
罵声を浴びせたい気持ちを抑えつけ、俺は歩き出す。俺の靴音がやけに鋭く鳴る。
無愛想な顔を晒している奴は、どこか困り果てたように眉をひそめながら抵抗していたが、その貧相な腕ではいくら藻掻いても無駄なようだ。
まっすぐに向かってくる俺の靴音を聞いた奴らが、俺を見る。俺と目が合ったのは、奴だけだった。瞬間、奴が怯えたような顔を見せた。

俺は顔と体を強ばらせた奴の隣に来ると、片手で奴の腰を抱き寄せ、もう一方の手で静かに男の手首を掴んだ。
突然のことに、男が弾かれたような顔をする。間抜けで低俗な顔をしている。見れば見るほど吐き気がする。この汚物に一発拳を叩き込みたいと逸る両手に力を入れる。奴の腰を抱いた手はそこまで力が入らなかったが、男の手首を掴む手にはどこまでも力がこもる。腹の底から無限に力が湧いてくる。
大の大人の太く頑丈な骨がどうした。俺が易々とへし折ってやる。
男がぐっ、と呻く。声帯を潰してやりたいほど醜い声だった。耳障りだ。

「すみません。この人、僕の恋人でして…」
体中の穴という穴から吹きこぼれそうなほど溢れかえった激情を隠して言ったつもりだった。だが、男どもがどこか逃げ腰になったのを見ると、どうやら俺の形ばかりの配慮は意味を成していないらしい。
こんな汚らしい奴らの血などで手を汚したくはない。だが今は、今だけは、意識があるまま痛めつけ、苦しませ、じっくりと全身を切り刻んでやりたいと思った。元々屑以下の生き物なのだから、ボロボロの肉の屑にしたところで、本来あるべき姿に戻してやっただけで何の問題もないはずだ。俺はいつだって間違っていない。
今ここに誰もいなければ極刑に処してやったのだが、仕方がない。見逃してやろう。だが、次はないと思え。
「誰の女に手出してんのか分かってるのか…ああ?」
周囲を行き交う人の群れに聞こえないように、声を潜めて言う。目が腐りそうなほど汚らしい男ども全員を、舐めるように睨み付けながら。

そして、今後一切こんなふざけたことができないように、殺意を込めて一文字ずつはっきりと発音した。
「…殺すぞ」

その言葉が終わらないうちに男どもはすぐに情けない声を上げて逃げ出した。
呆れた。情けない奴らだ。あんな輩に対してここまで怒りを抱いたことが不思議に思えてくる。

こいつには、俺しかいないんだよ。
お前らには…そうだな。穢れた商売女なんてどうだろうか。ゴミ同士仲良く腐って、土に還っていくのがいい。
すぐに小さくなって街角に消えた奴らの背中から視線を外すと、俺に腰を抱かれた女が掠れた声を絞り出した。
「あの…ごめんなさい、私…」
奴を見下ろす。目を伏せた奴は、普段よりずっと弱々しく見える。僅かな体の震えが、腰に添えた手のひらから肩までに伝わってくる。こいつは並大抵のことでは動じない。あの男どもが怖かったわけではないのだろう。きっと、別の男に言い寄られたことで、忠誠を誓った俺が激昂することを恐れているのだ。
「あの人たちに何回も離してくださいって言ったんですけど、聞いてくれなくて」
また小さく、ごめんなさい、と呟く。
「全く。一時も目を離しておけないな、お前は」
普段通りの俺の声を聞いた奴が、怖々と顔を上げて俺の目を見る。
「やっぱり、怒ってますか」
「ああ。だが、あいつらに対してだけだ。お前に対しては何とも思ってない」
奴はごめんなさい、とまた声にならない声で言う。
「やはり街に出るとお前みたいな浮世離れした女は目立つな…次からは人が少ない時間帯に来るようにするか」
「…はい、そうですね」
奴が微笑を浮かべる。そうだ。それでいい。
「用も済んだし、帰るぞ」
こうして俺たちは帰路についたのだった。

2人で玄関に足を踏み入れた後、俺はドアを閉め、確実に施錠して後ろを振り返る。
俺よりも先に靴を脱いで揃えた奴が、俺を出迎えた。
「お帰りなさい」
その顔には、優しげな笑みが浮かんでいる。
一緒に帰ってきたのに、お帰り、ただいま、なんて言い合うなんて阿呆みたいだ。いつも思う。だが、悪くはないと思う。
「ああ。ただいま」
俺も阿呆になりきって言い、靴を脱いで家に上がる。

お前に対しては何とも思ってない。それは嘘だ。
本当は心のどこかで、ただでさえ存在が希薄なお前がどこかに行ってしまいそうで、気がおかしくなりそうだと思っていた。
ふと、頭に浮かぶのは、ごめんなさいと何度も呟いて体を震わせていた奴の姿。

奴が自分からあいつらを誘っていたとしたら?
奴が俺以外の男に触れられて密かに体を疼かせていたとしたら?
俺が知らないところで奴が誰かのものになっていたとしたら?

お前のことが分からない。お前の何を知っていて、何を知らないのか。それが分からなくなる。知りたい。だが、知りたくない。
おかしい。どうしようもなく囚われている。

俺だけにその心の奥を見せてほしい。
奴の中に俺以外が残らないようにしたい。
俺を望み、俺の全てを貪欲に求め続けてほしい。

肥大し粘性を帯びた欲望の数々は胸の奥に仕舞い込み、見て見ぬふりをした。



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