忠犬が早起きした理由
2020.06.02 2020.11.06
水底のように深く沈んだ意識から少しずつ目覚め、重い瞼をこじ開ける。広い寝室は薄暗く、相変わらず無機質だ。大きな窓を覆う薄い色のカーテンから漏れ出す色相を持たない光が、既に日が昇っていることを告げる。
朝か。視界に垂れ下がる赤茶色の髪を後ろへ掻き上げる。小鳥の囀りを聞きながら、緩慢な動作で欠伸をする。
昨夜は仕事から帰って来るのが遅かった。頭が重く、背中や腰も痛む。限界というほどではないが、疲労がかなり蓄積しているのが自分でも分かった。
枕から首だけを浮かせ、近くのテーブルに置いてあるデジタル時計に目をやった。どうやらかなり早い時間に目覚めてしまったようだ。平日ならば二度寝する暇さえ惜しいと思い、すぐさまベッドから抜け出ていただろう。だが、今日は休日である。あと少しだけ眠るとしよう。
ゆっくりと目を閉じると、意識が聴覚に集中する。隣で眠る奴の寝息がやけに静かだ。まさか死んでいないだろうな。
寝返りを打って体をシーツの上に転がしつつ、腕を遠くまで伸ばしてみた。だが、いつまで経っても細い肩や柔らかい髪に辿り着かない。
目を開ける。そこはやはりもぬけの殻だった。驚いて目を見開く。思わぬことに眠気が薄まっていく。
奴め、もう起きたのか。
いつも早起きしてよく働いているのだから、休日は多少寝過ごしたとしても許してやるというのに。
それに、その無防備な肩を揺すり起こし、頬を緩ませた顔を見るのもまた一考だからな。
それにしても不思議だ。奴はなぜ、今日に限って早く起きたのだろうか。何か企んでいるのかと勘ぐってしまう。阿呆みたいだが、俺はあんな小娘の一挙一動にすら心を掻き回されている。
すると、ドアの向こうからとん、とんと階段を上ってくる小さな足音がした。寝室の前まで音が近付いてくる。寝たふりでもして奴の様子をうかがってみるか。俺は頭まですっぽりとシーツを被った。視界が重たげなグレーで満たされる。まるでかくれんぼをしているようだと思った。常に獲物を追いかけ回し、見つけ出す側の人間である俺が、誰かから隠れている。変な心持ちだ。
がちゃり。
控えめな金属音がしてしばらくすると、ぱた、と小さな音を立ててドアが閉まる音がした。ご主人様を起こさないよう細心の注意を払うその姿勢は評価してやろう。
奴のよそよそしい足音が、離れた場所で鳴る。次の瞬間、しゃ、と音がして視界が黄みを帯びた明るいグレーに変わる。奴がカーテンを開けたらしい。
眩しい。布越しでも十分に感じる強い光に目を細めた。思わず体をもぞもぞと動かすと、布が擦れる音に混じって、奴がくすりと笑う声がした。俺が自発的に起きるのを待つ作戦か。健康的でいいじゃないか。悪くない。
辺りが静かになる。この目で見ずとも、俺が起きるのを従順に待っている奴の様子が脳裏に浮かぶ。
無駄だ。俺は二度寝をするぞ。異論は認めない。お前であってもだ。
いささか残る眠気に身を任せて目を閉じた。あたたかな光を浴びた瞼の裏の血潮が透け、視界が濃いオレンジ色に染まっている。
突如、マットレスのスプリングが沈む感覚がした。奴が俺の背中の辺りに手を置いて、か弱い力で揺さぶってくる。
「琵琶坂社長。朝ですよ」
なるほど。作戦を変更したな。慌ただしい平日の朝を連想させ、俺が慌てて目を覚ますのを待っているというわけだ。
だが残念だったな。お前のその手には乗らない。お前の声を聴いたところで、慌てるどころか気が抜けてしまうからな。
「…なんだ犬っころ。随分と早起きじゃないか」
今すぐに起きてほしいという奴の強い意思を感じ、仕方なく布の向こうに言葉を投げかける。
「お、起きてたんですね」
「平日でもないのにお前が早起きして俺を起こしに来るなんて気味が悪い。一体何を企んでいる?」
「えっ…昨夜、貴方が私に言ったこと、覚えてないんですか」
奴が驚いたような声を上げた。
昨夜?さあ、何を言っただろうか。思考を巡らせる。先程目覚めたばかりの頭の中は、ぼんやりしていて何も思い出せない。
「せっかくの休日だから、貴方にゆっくり休んでもらいたい気持ちは山々なんです、でも…」
頬に奴の手のひらの体温を感じた。布越しでもしっかりと俺の頬を捉えたのは、偶然か、必然か。
「私、覚えてるんです。昨夜、貴方が『せっかくの休日だから、どこかに連れていってやるからな』って言ってくれたこと」
…そうだ。その言葉にハッとした。
帰宅し、眠気に抗えずにテーブルに突っ伏して眠っていた奴を抱きかかえてベッドに運んでいる時。廊下を歩きながら、俺は確かにそう言った。
「だから、今日は早起きしてやることをちゃっちゃと片付けたんです。洗濯物も干したし、アイロン掛けもしたし」
一瞬黙り込んだかと思うと、奴が恥ずかしそうに呟いた。
「貴方に行くぞって言われたら、すぐに出掛けられるように…したんですよ?」
こいつはいつもこんな調子だ。俺が望む言葉の数々は恥ずかしげもなくはっきり口にするくせに、自分の願望だけは言い淀む。そういうことに不慣れなのだろうか。それとも、その心の内は俺にさえ明かすことが憚られるものなのだろうか。全く、よく分からない奴だ。
だが、俺もこいつのことは言えないかもしれない。自分で自分がよく分からないと思う。昨夜の出来事がまさに良い例だ。
俺はどんな感情も、どんな言葉も、奴に全てぶつけてきた。だが、いつになっても、何かをしようだの、どこかに行こうだの、そんなありきたりなことを言う機会だけは上手く掴めないでいた。
普段奴に言わないようなどうでもいいことを口にした瞬間、奴の存在がぐっと近付いてくるようで。逆に俺が奴に懇願しているようで。なんとなくばつが悪かった。だから、奴が聞いていないうちに、蚊の鳴くような声でああいうことを言ったのだった。
今思えば馬鹿らしい。俺がこいつの役目の終わりを告げず、いつまでも傍に引き留めていることも。
本当に、呆れるほど馬鹿らしい。だが。こいつが俺の何気ない言葉すら拾っていたこと。こいつが俺と過ごす時間に思いを馳せていること。それだけで、こいつと馬鹿の如く先行きを考えずに笑っているのも悪くはないと思ってしまう。
シーツの端に手を掛け、勢いをつけてガバッとめくり、顔を出した。突然のことに驚いた奴の手が弾かれたように離れる。
「わっ!びっくりした…」
目の前には、当たり前のように奴がいた。ベッドに片膝と片手をつき、俺の頬に当てていたもう片方の手を宙に漂わせている。奴が身に付けている群青色のフレアスカートと白のトップスが、窓から差し込む光に強く照らされ、明るさや鮮やかさを増していた。
毎日見ているような服装なのに、なぜこんなにもよく似合っていると思ってしまうのだろうか。
奴と目を合わせながら重怠い体を起こし、シーツを蹴って体から引き剥がす。眠気は既に覚めていた。
「おっ…おはようございます…?」
驚くべきことに、普段化粧っ気のない奴が、その整った顔に薄く化粧を施していた。唇を彩る柔らかなサーモンピンクが印象的だった。メビウスにいた頃より少し伸びた髪はゆるくカールして、奴が僅かに動くたびに様々な表情を見せている。
道理で普段にも増して綺麗だと思った。
俺に相応しいこいつを連れて、いち早く出掛けたい。こいつとならどこへでも行ける気がする。こいつならどこへでも、喜んでついてくるだろう。それでこそ、俺の忠犬だ。
だが一方で、永遠に逃げられぬように、傍につなぎ止めておきたくなる。
擦り寄ってきたその体に手を伸ばしても、空いた脇からするりと抜け出して走り去っていってしまうような。奴はまさに、犬のような女だ。一時も目が離せなくて気が気でないが、それが奴のありのままの姿なのだろう。
そのまま変わらずにずっと、俺についてくるがいい。地獄の果てまでな。
行き場を失っている奴の片手を掴み、自分の方にぐいっと引っ張る。へっ、と呆けた声を上げた奴がバランスを崩し、俺の体にもたれかかる。青が施された爪先が、俺のシャツの胸元をきゅっと掴む。遠慮がちに預けられた全体重は軽く、頼りなかった。
「ちょ、何して…」
眼下で奴が困惑する声が聞こえる。腕を奴の首に巻き付け、そのままぼふ、と音を立ててベッドにダイブする。
日の光が当たるベッドの上も、腕の中に捕らえた存在も、あたたかい。季節の移り変わりになど興味はなかったが、この瞬間だけは春の訪れを感じた。
体を離して奴の顔を見る。観念した奴は目を細めながら小さく笑い、俺の片腕に頭をもたせてきた。白の上に広がる金糸からは、花のような甘い香りがする。
「全く…朝からキャンキャン喚くんじゃない。俺は疲れてるんだ」
不機嫌を装ったつもりだったが、なぜか声が優しい調子になってしまう。
「すみません。貴方が起きてきてくれるのが待ちきれなくて、つい」
こうやって、手綱ごと引っ張られて振り回されるのも、たまには面白いかもしれない。
「…で?お前はどこに行きたいんだ?」
「えっ。私が決めていいんですか?」
「お前はよく働いているからな。さあ、何でも言ってみろ」
奴は、うーん、と唸って、数回瞬きをしてから言った。
「水族館に行きたいです!」
奴が顔を輝かせてそう言った途端、その顔はかなり幼く見えた。
年が離れているのもあって、妹…いや、娘がいたらこんな感じなのかと考えてみた。こいつのような聡いガキならば飼ってやらないこともない。
「そんなのでいいのか?」
「もちろんですよ!」
「相変わらず無欲だな」
「そうと決まれば早く準備して行きましょう!」
「くくく…おいおい、急かすなよ」
すぐにでも起きて準備に取りかかりたかった。しかし、奴の頭の重みや腕の痺れを手放すのが惜しくなってしまい、起き上がるのに時間を要したのだった。