逃避の先には

2020.06.08  2020.06.23



未完成のままでありながら、その存在を誇るように天を穿つ、ランドマークタワーの屋上。私はそこにいた。日の光を受けてあたたまった無機質なコンクリートにぺたんと座り込み、腕の中には、琵琶坂先輩の大きな体を抱き締めて。

「ここから見える景色、相変わらずとても綺麗だと思いませんか」
私は空を見上げたまま、うわごとのように呟いた。彼は小柄な私の体に遠慮なく体重を預けたまま押し黙っている。

頬を撫でる風が心地よい。頭上の空には濃い紫色から茜色、そして淡いオレンジ色につながるグラデーションがかかっている。羽衣のように柔らかそうな雲にも、その色が静かに映り込んでいた。

私たちを辛く苦しい現実から救いたいと願う歌姫が再現した全ては、現実と遜色なく仕上がっている。
そう。腕に抱いた彼の体も、あたたかくて、儚くて、まるで現実みたい。骨のごつごつした感覚も、控えめに拍動する心臓の動きも、ちゃんと感じる。
本当に世界が終わりに向かっているのか、分からなくなるほど。

「本当に…世界が終わっちゃうんですね」
空から視線を外すと、前方に投げ出された彼の両脚がぴくりと動いたのが見えた。

私の肩に頭をもたせている彼の顔を見た。
彼が、やっとのことで目をこじ開ける。その細く鋭い目の奥に、怒りと殺意が爛々と輝いていた。
肌が直接触れなくても体温を感じられるくらい近い距離で彼と見つめ合う。メビウスでここまで私の心に迫ってくれた人は、これまでも、これからも彼一人なのだろう。
はっ、はっと短く浅い息を吐き出す唇は、ガサガサに乾いてひび割れていた。
体をほんの少し動かす体力さえないようで、彼が重たげな瞼をゆっくり開閉しながら、喉から低い声を絞り出した。
「殺す…」
声が掠れて語尾が震えていた。

メビウスの肉体に顕著な変化が現れるほど、現実の彼の肉体はかなり摩耗し切っているようだった。もしかすると、彼のいる医療刑務所で暴動か何かが起こり、彼の生命維持手段が絶たれているのかもしれない。

彼は何度洗脳しようとも、私を見るなり全てを思い出して襲いかかってきて、そのたびに打ち負かしては洗脳し直してきた。まるで執念で体に鞭を打っているかのよう…いや、彼は元々、執念でできている人なのだ。

何十回、何百回と打ち負かされても、彼は私の前に立ち続けてきた。きっと彼も、絶対に私に勝てないこと、そしてここから絶対に逃げられないことなんて分かってる。でも、それを認めたくないし、認めたらそこで終わりだと思っているのだろう。

世界がそうであっても自分はそうではない。そんな過剰な自信に満ちた思考も、完璧無欠でありながら不完全で揺らぎやすいその全ても、愛おしくて堪らなかった。

「琵琶坂先輩になら、殺されてもいいですよ」
今ここでこの人に殺されるのも悪くない。彼の言う、『同類』に殺されるのだったら満足だ。死期が僅かに早まって、命を奪う要因が変わるだけ。ただ、それだけだ。
私は彼の脇に差し入れていた片腕をするりと抜き去り、ブラウスのボタンをいくつか外すと、襟を広げて首を見せた。
そして、悪びれもなく言った。
「どうぞ、お好きなように」

彼は何もしなかった。違う。できなかったのだ。殺す。そう短く言うだけで精一杯だったようだ。
私の首を絞め上げようとしているようだが、腕を少しも持ち上げられず、指先が虚しくぴくぴくと動いているだけだった。
その白くて綺麗な歯で、目の前にいる私の首の肉を食いちぎってもらっても一向に構わなかったけど、それさえできないようだった。彼は悔しそうに、苦しそうに眉間に皺を寄せながら、口を一文字に結んでいた。

今にも死んでしまいそうな彼に殺してなんて頼むのは、酷だったかな。ごめんなさい。
私はブラウスのボタンを閉めると、また両手で彼の体を抱き締め直した。

殺したいのに殺せない男と、殺せるのに殺さない女。
残酷で、ろくでもなくて、世界の終わりによく似合う。他人事のようにそう思った。

現実から逃げて。逃げた先の理想ここからも逃げたくなって。その先を考えることからも目を背けて。結果的に世界の終わりを招いた。

かつて共闘した帰宅部員たちの思いを踏みにじって。それなのに心のどこかで、誰も私に踏み込んで来なかったじゃない、なんて思って。
何もかもが宛も価値もないように思えて、全てを無に還したくなった。

私は、なんてことをしてしまったんだろう。

「馬鹿だな…」
急に彼が口を開いた。

「お前は…こんなクソったれな世界で逃げ回るような弱虫じゃないだろうに」

彼の胸元に結ばれた群青色のアスコットタイが、夕陽に照らされて赤紫色に染まっている。彼の命の色がすっかり抜けて、代わりにこの偽りの世界の色に満たされているみたいだと思った。

「いえ。私は、弱虫だったんです。何が私の幸せで、何が私の不幸せか…それも区別できないくらい、全てに怯えていた。何もかもが分からなくなって、逃げ出したんです」

私は、彼のことを言えないくらい、よく嘘をつく性分だった。現実でも、ここでも、吐く言葉は全て嘘に塗り固められ、それらを真実だと思い込んでしまうほど、本当のことをひた隠しにして生きてきた。

でも、今やっと、本当のことが言えた。今まで誰にも言えなかったのに。誰かに心の内を見せることなんて憚られると思っていたのに。内心、自分でも驚いた。

もっと早く、自分から声を上げればよかったのに。
そうすれば、誰かに心の叫びを聞いてもらうこともできたのに。

なぜ、よりによって今なのだろう。

「馬鹿だな。本当に」
衰弱して、全ての終わりを悟っているからだと知っているのに、彼の声の調子が優しく聞こえてしまう。

すると、先程まで腕を上げることさえできなかった彼が、小さく呻き声を漏らしながらゆっくりと片腕をあげた。
その無骨な指で頸動脈を絞め上げ、全て終わらせてくれるのかと思ったが、彼の大きな手は首を通り越して、私の頭の上に置かれた。

震える手が、私の頭をくしゃ、と撫でる。頭皮で感じる体温が、少し冷たいような気がした。

「俺と現実に帰ってくればよかったんだ」
彼は、とても寂しそうな顔をして微かに微笑んだ。

「そうすれば…俺がお前の逃げ道になってやったというのに」

今までどんなことが起ころうとも泣くことができなかったのに、鼻の奥がつんとして、唇がわなわなと震え、みるみるうちに両目に涙の膜が張った。

こんなにボロボロになっても、貴方は少しも変わらないのね。
私も世界も、こんなにも変わり果ててしまったのに。

このままでは涙がさらに湧き上がってきそうで、彼と合わせた視線を外し、足元のコンクリートに移した。
「ははっ…何言ってるんですか、先輩」
何回も瞬きをし、頭を空っぽにしようとした。そう。いつもみたいに逃げようとしたのだ。

「もう手遅れなんです…よ…」
私の言葉が終わらないうちに。
彼の腕から力が抜けて。
私の栗色の髪を梳きながら。
彼の手がするすると滑り落ちた。
肉とコンクリートがぶつかって、ごっ、と鈍い音を立てる。

涙の膜が薄く張ったままの眼球をそっと動かして、彼を見た。

彼の体はぴくりとも動かない。息もしていない。気付けば、抱き締めた体の奥から響いていた鼓動はぴたりと止んでいた。
固く閉ざされた睫毛は、風に撫でられ揺れても、決して開くことはない。

彼はもうじき死ぬ。そう思って覚悟を決めているつもりだった。

だけど、彼が今ここで、この腕の中でいなくなって、心に張り詰めていた何かが震えた。そして、自分のしでかしたことの重みが私の全てにずしりとのしかかった。

なぜ現実に帰ってこの人と生きることを選ばなかったんだろう。
世界を壊して全てから逃げるよりも、もっと幸せだったのに。
彼は酷い人だけど、それでも、どうしようもなく傍にいたかった。

でももう、何もかもが手遅れで。全て終わってしまった後にそれに気付いたのだ。

薄っぺらな覚悟は易々と決壊した。

今まで押し込めてきたぐちゃぐちゃの感情が雫に姿を変え、ぱたぱたとこぼれ落ちる。まるで蛇口を捻ったように透明な涙が溢れて止まらない。それは眼下で永遠の眠りにつく彼の服や肌を瞬く間に濡らしていった。

「琵琶坂先輩…」
もう聞こえていないけど、私は彼の名前を呼んだ。

涙で視界がぼやけ、夕焼けの色に染められた彼の色が、滲み、混じり合い、溶けていく。

微動だにしない彼のぐったりとした重みを感じていると、胸が壊れそうになる。現実の彼が死んでしまったのだから、ここにいる彼の体もメビウスにいられないはずだ。しかし、まだ彼の体が消え去る気配はない。だから、一秒ごとに彼がいない事実と耐えがたい苦痛が波のように押し寄せてきて、頭がおかしくなりそうになる。

彼の言う通り、人は死んだら無になる。幽霊なんていない。
現実むこうにも理想ここにも、既に彼はいないのだ。

ここは、望みが全て叶うはずの場所だ。だが、もう決して何も叶うことはない。
私がこの手で、あるべき理想みらいを壊したのだ。

「一人にしないで」

息ができないくらいの苦しさが、私の細い体を内側から壊して流れ出しそうで、彼の体を必死で抱き締めた。
いくら子どものように泣きじゃくっても、胸骨が沈んで、肋骨が歪んで、心臓がひしゃげるくらいの胸の痛みは止まらない。

自分でこの腕の中の熱を奪ったのに、それが冷め切ってしまうのが怖いなんて。
裏切っては何度も突き放しておいて、また縋り付くだなんて。
自分勝手だ。どうしようもない馬鹿だ。救いようがない。

貴方は嘘ばかり吐いていたけど、これも嘘ならよかった。
嘘だよって、感情のこもっていない目をしたまま、優しく笑ってほしかった。

自分で全ての逃げ道を塞いで。逃げ道があってもそこから逃げて。私は何がしたかったんだろう。
世界と愛しい人を犠牲にしてまで得たものは、自分はどこに逃げようとも不幸せであるという、揺らぐことのない事実だけだった。

彼の亡骸が消え失せたあと、どうするかなんて。
世界に殺されるか、いっそ自分で命を絶つかなんて。
何一つ考えられなかった。

今はただ、彼を離したくなかった。



BACK