笑う赤いタチアオイ

2020.06.30  2020.07.02



しとしとと降る雨を黒い傘越しに眺める。頭上では重たげな色の雲が晴れることなく空に居座っている。ここ数日、天気はずっとこんな調子だ。梅雨の訪れと時の流れの早さを感じる。
もう6月なのか。何回目かの3年生への進級から、もう2ヶ月も経ったことに驚かされる。

そういえば、現実で自分の殻に閉じこもっていたときも、2日も、2ヶ月も、2年も、全てが同じような早さで流れていった。失った時間を悔やむでもなく、取り戻そうと動くわけでもなく、一人でただ鬱々としていた。
だが、今はそれよりもはるかにマシだと思う。今自分が向かっているのは、自分の無力さや無価値さを目の前に突きつけられるような辛い現実だ。でも、そこが現実じごくだとしても、俺はいつもみたいに逃げるためじゃなく、真っ向から戦うために動いている。それだけで、ほんの少しだけでも未来はいいものになるような気がしてくる。

俺がここでしてきたことに意味を持たせてくれたのも、俺が変わろうと思えたのも、全部あいつのお陰だな。
道端に咲く背の高い赤色の花を見て、ふと部長のことを思い出した。
そのとたん、鼓動が早くなる。雨水が跳ねて少し濡れた足元は肌寒いのに、頬や胸は火がついたように熱くなってくる。喉のあたりが苦しくて、息をするのが辛い。首元のスカーフを少し緩めてみたが、ほんの気休めにもならない。

罪の意識や焦燥感以外で苦しさを感じるのは、本当に久しぶりだった。
俺は、彼女にもう逃げないと誓った。だが、こればっかりはどうしていいか分からない。

逃げられるもんなら、この気持ち全部ぶん投げて逃げてぇよ。俺はどうすりゃいいんだ、部長。

「笙悟!」
傘を叩く軽やかな雨音に混じって、彼女が俺の名前を呼ぶ声がした。
心臓が跳ね、喉の奥からうっ、という呻き声がこみ上げる。漫画みたいに口から心臓が飛び出すかと思った。

傘の持ち手を強く握り締めながらゆっくりと振り返ると、少し遠くから無地の白い傘を差して歩いてくる彼女がいた。
彼女は俺と目が合うなり、ぱしゃぱしゃと足音を立てながら駆け寄ってくる。お互いの距離がぐっと詰まり、俺はつい全速力でこの場から立ち去りたくなった。俺よりも持久力のある彼女のことだから、足が速いだけの俺に追いつくことなんて簡単なんだろうけど。

「おう、部長…」
今までずっと思い描いていた彼女の姿がすぐ目の前にあるという事実を噛み締めることに精一杯で、気が利いたことが言えない。

「道端で立ち止まって何してたの?」
「いや、何もしてねぇよ」
「変な笙悟」
彼女は傘の白が柔らかく反射した空間の中で楽しそうに笑った。
彼女の態度は普段あらゆる人に向けているものと少しも変わらない。それでも、今の彼女は俺だけを見ている。普段無口な彼女が自分に対しアクションを起こしている。今は、俺一人だけに。

ああ。好きだ。
そう呟きたくなるのをぐっとこらえると、俺が言いかけた言葉が気になったのか、彼女が俺の顔を覗き込んでくる。灰色のような、茶色のような、曖昧で薄い色の綺麗な瞳だ。ずっと見ていたいが、流石にずっとは見ていられない。

顔がカッと熱くなって、耐えられずに顔を背ける。
「な…なんだよ…そんなに見んなよ」

「せっかくだし、相合傘して帰ろっか」
「へっ」
相合傘…!?

頭が真っ白になって彼女を見られなくなった俺に対し、彼女の行動には迷いがなかった。パチ、という金属音がして白いものがすぼまったのが見えた。驚いて彼女に視線を戻すと、やはり彼女は白い傘を閉じて留め具のボタンを留めていた。雨がパタパタと音を立て、灰色のブレザーに小さく濃い染みを作っていく。

俺が彼女の頭上に傘を差し出そうと動く前に、彼女が俺の傘の中にするりと入ってきた。

髪や肌が透明な雨粒で濡れた彼女の顔が、近い。体が固まる。声さえ出ない。息が止まる。意識して鋭く息を吸うと、雨の匂いに混じって優しく甘い香りがした。

「さ、行こ」
傘の中で聴いた彼女の声は、雨音なんて気にならないくらいに綺麗な響きを含んでいて、俺はただ無言で頷くことしかできなかった。



「梅雨ってジメジメしてて嫌になっちゃう」
「俺は雨が割と嫌いじゃねぇから、梅雨もいいもんだと思うぜ」
「そうかなぁ」

いつもの調子で部長と話そうと努めているものの、彼女との距離の近さが普通じゃない。
左隣にいる彼女をチラリと盗み見る。俺の黒い傘が、少し上目がちに空を見上げる彼女を、雨雲のように覆っている。彼女が片手に提げている傘と正反対の色だ。

全く。自分の傘を持っているのにわざわざ俺の傘に入ってくるなんて、一体どういうつもりなんだろうか。
いつもみたいに俺をからかってるのだろうが、相合傘なんて夢のようなシチュエーションでおっさんの純情を弄ぶのは止めてほしい。それに、帰宅部の連中に今の俺たちを見られたら、変なうわさを立てられる可能性だってある。そしたら、彼女だって嫌な思いをするだろうに。

思えば、帰宅部のメンバーが増えて部全体が賑やかになってくるにつれて、彼女と2人きりになれる時間も少なくなっていった。だから、学校から家に帰るまでのほんの少しの間だけでも、彼女と一緒にいられて嬉しいと思う。もしこれが夢なら、まだ覚めないでほしい。
でも、心のどこかで、俺と釣り合わないような強く優しい彼女を一人占めしてもいいのかと思ってしまう。

好きな人が自分を見ていてくれる。
好きな人の傍にいることができる。
俺は、こんなに幸せでいいんだろうか。

肩が触れそうなほど近くにいるのに、気の利いたことも話せない。
誰よりも長く彼女と共に戦ってきたのに、彼女のことが何一つ分からない。
おまけに、好きな人の前でカッコつけることさえ忘れてしまう情けない男ときたもんだ。
やっぱりダメだ。俺なんかが幸せを感じるべきじゃないと思う。

無意識に歩くスピードが緩んでいたのか、彼女が不思議そうにこちらに顔を向ける。長いこと彼女の横顔を見ていた俺の視線は、もろに彼女のそれとぶつかってしまった。心臓がどくりと鳴った。

「どうかしたの?」
「いっ…いや、な、何でもねぇよ」
しどろもどろしながら足元に視線を落とすと、彼女がふと足を止めた。つられて俺も歩くのを止める。

彼女は何も言わない。無言の俺たちを逃がさないと言うように、涼しげな雨音が辺りを満たしている。人気のないこの道は、車や自転車さえ通らず、とても静かだった。
あまりに俺の様子がおかしいから、怒らせてしまったか。恐る恐る彼女の顔を見ると、彼女はやはり不機嫌そうな顔をしていた。普段温厚な彼女を怒らせたんだ。俺は相当ヤバいことをやらかしてしまったのだろう。

「笙悟!」
「…はっ、はいっ!」
どうしたものかとうろたえていると、彼女が急に俺の名前を呼んできて、反射的に背筋を伸ばして返事をした。

次の瞬間、彼女は白い傘をそっと手放すと、俺の胸元に顔を埋めて抱きついてきた。彼女のか細い両手が、俺の背中にぎゅっと押し当てられているのが分かる。

なんだ。なんだこれは。どうなってるんだ俺は。
突然の出来事に慌てて、傘を持つ手から力が抜けそうになる。
あったかい。柔らかい。いい匂いがする。体中がじわじわと熱くなってくる。
もしかしたらこの胸のドキドキが、俺に密着している彼女にも聞こえているのだろうか。
胸が爆発しそうだ。それなのに、どこか落ち着く。

このまま時間が止まればいいのに。
わがままにただそう思った。

彼女はそっと体を離すと、俺をまっすぐに見て言った。
「笙悟って、何に対しても『自分なんか』…って思ってるでしょ」

スカーフの端を掴む彼女の手に力が入ったのが分かった。
「私は…ヘタレで、かっこ悪くて、でも優しくて、一緒にいて安心できて…そんな笙悟が好きなんだからね」

えっ。
思考回路が停止し、ただ固まっていると、みるみるうちに彼女の顔が赤くなっていく。部長のこんな顔、初めて見た。
もしかしてこれは…両思い…というやつなのか。彼女と思いが通じ合うなんて、絶対ありえないと思ってた。
俺は…なんて幸せ者なのだろう。

「私、好きじゃない人と相合傘なんてしないんだから…」
恥ずかしそうに足元に落ちた白い傘を拾い上げている部長を見ていると、なんだか俺も彼女への気持ちを行動で表したくなった。

「俺も。俺も…好き、だよ」
ああ。言っちまった。『好き』なんて言葉だけじゃ俺が抱えてる気持ちは完全には伝えきれないけど、今彼女に一番に伝えたいこととしては妥当だと思った。

「え」
2人して顔を真っ赤にして固まっている。
なんだよこれ。まるで高校生同士のうぶな恋愛だ。笑っちまうほど不器用でたどたどしい。でも、目の前にいる相棒の…好きな人のお陰で、俺は掴み損ねた青春ってもんを取り戻せている気がする。

どちらかが再び歩き始めるでもなく、その場で『また明日』と別れるでもなく、ただ雨の音を聞きながら見つめ合っている。
彼女によく似た花々が視界の端で静かに揺れて、笑ってるみたいだった。



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