溶け出したシアンブルー

2020.07.11



「ただいま」
「お帰りなさい」
仕事から帰ると、彼女が優しげな笑みを浮かべながら俺を出迎えてくれる。
「ご飯もできてるしお風呂も沸いてるけど、どっちにする?」
このやり取りも、随分長く続けている。
「先に飯が食いてぇな」
彼女は分かった、と頷くと、くるりと回れ右をして台所に向かった。
俺は、背後のドアノブを何回も押したり引いたりして確実に施錠したのを確認してから、靴を脱いですぐにクローゼットに向かう。

クローゼットを開け、カバンをしまい、スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛ける。

俺は、小さなアパートの一室で彼女と一緒に住み始めた。
見えないものに怯えながら、ただ必死に自分に言い聞かせる。
長年のブランクのある俺でも受け入れてくれた職場があって。それに、帰ればいつも迎えてくれる大切な人がいて。
俺は幸せなのだと。

視界の中でうごめくものの気配を感じ、心臓がびくりと跳ねる。動きを止め、恐る恐るそちらに目をやった。

クローゼットの扉の鏡に、白いシャツと紺色のネクタイを身に着けた髪の黒い男が映っている。どこまでも黒いその目は、恐怖でぐっと見開かれていた。顔に浮かぶ感情が何一つ無いのは、疲れのせいだけではないのだろう。

見れば見るほど、『似てきている』ような気がする。

アストラルシンドロームから目覚めたときよりも痩せた頬に手を這わせ、指に力を込める。皮が下に引っ張られて、眼球の下から血の通った赤い粘膜が覗いた。

渾身の力を込めて肉を殴打する鈍い感触。
フローリングに広がっていく生温かく赤い血。

血の気が引く感覚と強い吐き気がして、思わず両手で口に蓋をする。鼻で深く酸素を吸い込む。肩が大きく上下する。全身ががくがくと震えて立っていられない。床に膝をついた。

目を強く閉じても、蘇ってくる。あの日のたった一瞬の出来事が。全てが狂い始めた事の発端が。今まで一時も消えることなく俺の中に居座っている。

少し離れたところで鳴る食器の音を聞きながら、自分を落ち着かせ、やっとの思いで立ち上がる。しかし、また吸い込まれるように鏡を見てしまう。俺と同じくらい背の高い男が思い出され、胃液が渦巻き始める。吐きそうになるのを堪えて、彼女の元に向かう。

「いただきます」
2人きりで食卓を囲む。
温かく美味い料理を、食欲が失せきった口に機械的に運ぶ。
「…美味ぇな」
「あら、嬉しい。ありがとね」
テレビの音声に掻き消されそうなほど小さな声を拾ってくれた彼女は、幼さが残る顔を緩ませて、こんな情けない俺に笑いかけてくれた。

本当はもっと晴れやかな気持ちで彼女の料理を食べたい。
彼女を色んな場所に連れて行って心ゆくまで一緒に楽しみたい。
愛する人の隣にいられることを喜びたい。

だがそれは永遠に叶わない。
俺には何も許されない。


俺は、現実に帰って琵琶坂と暮らしていた彼女が心配だった。見るたびにどこかに怪我をしていて、それでも笑顔を絶やさない彼女を支えたいと思った。だから、度々あいつに隠れて彼女の様子を見に行っていた。
でも、いつものように彼女といたあの日、彼女が瞬く間に消えそうな儚い存在に思えて、俺はつい彼女を抱き締めてしまった。そして、一緒に逃げよう、と言った。彼女は何も言わず、余裕のない俺の背中をただ撫でてくれた。

そんな中、いつもより早く帰って来た琵琶坂が俺たちを見るなり、酷く激昂して襲いかかってきた。
あいつに殴られ、うずくまる俺は、聞くに堪えない言葉を喚きながら彼女の首を絞めるあいつをどうにか止めようとした。
このままじゃ彼女が危ない。俺はどうなってもいいが、彼女だけは。
俺はリビングにあったガラス製の灰皿を持ち出して、あいつに向けて振り下ろした。

ただ、琵琶坂から彼女を守りたかった。話が通じないあいつにも、少しばかり目を覚ましてほしかった。でも、フローリングに這いつくばったまま彼女に憎しみのこもった視線を送るあいつには、もはや自分しか見えていないようで。俺は自分勝手な怒りを募らせてしまって…そこから先はよく覚えていない。気付いたら琵琶坂は頭から血を流したまま、ぴくりとも動かなくなっていた。

俺が、琵琶坂を殺したのだ。

俺のせいだ。彼女には幸せになってほしいと思いながら、心のどこかで彼女を奪い去りたいと思っていたから。
彼女は自分で望んで琵琶坂の傍にいた。どんなに酷な道でもあいつと歩んでいこうとしていた。それなのに、俺がその道を閉ざした。

彼女の幸せを壊すような真似をして…俺は最低だ。

「どうしたの、笙悟」
彼女の声が、俺を現実に引き戻す。いつの間にか食事を終えた彼女が、こちらを見ていた。
「いや…何でもねぇ」
「疲れてるみたいだね。ご飯、無理して全部食べなくてもいいから、お風呂に入ってらっしゃい。今日は早く寝ましょ」
「…ああ」

目の前にいる彼女の綺麗な瞳が、俺を見ている。
何も知らないようで、全て知っているような。一秒ごとに緩く力を込めて、俺の全てを押し潰しにかかっているような。そんま曖昧な色の中に、あいつを見出す。俺と彼女をつなぐあいつの存在が色濃く蘇って、彼女がまるで得体の知れない怪物のように見えてしまう。

ごちゃごちゃになった頭の中を空っぽにしたくて、ごちそうさま、と呟いて両手を合わせ、風呂場に向かった。

湯船に浸かり、ただ彼女のことを考える。
彼女はあのとき、目の前で自分の大切な人が殺されたのに極めて冷静で、俺を連れてあいつの死体を山に埋めに行くことも、あいつと住んでいた家にガソリンを撒いて焼くこともそつなくこなした。
だから俺は…俺たちは、今もこうして罪に伴う罰から逃げ延びている。

彼女は、あいつの残虐な色に染まってしまったのだろうか。それとも、彼女はあいつと同類だったとでもいうのか。だが、俺はそんな彼女をどうしようもなく愛してしまった。俺は、もう戻れない。

風呂場から戻ると、彼女が先にベッドに入って寝息を立てていた。おもむろに手を伸ばし、柔らかな栗色の髪をそっと撫でる。

俺が望んだものはいとも簡単に、かつ決して望まない形で手に入った。

違う。こんな身勝手なことをしてでも手に入れようとは思っていなかった。ただ彼女が幸せであれば、俺のちっぽけな思いは押し殺してしまえばそれでよかったのに。

今なら分かる。
俺は…琵琶坂と似てるんだ。

所有物が自分の手から離れることに怯えている。
結局、自分の損得でしか物事を考えていない。
欲望を満たすためには、どんな手段も厭わない。

まさに俺は…あいつのような屑野郎だった。

だから彼女は、俺の中に死んだあいつの姿を見ているのだろう。
俺はどこか残虐で美しい彼女を愛しているまま。彼女は俺の中のあいつの姿に惹かれるまま。
俺たちは死ぬまでここで足掻き、堕ちていくのだ。

義務的な動作で、同じベッドに入る。狭いが、あたたかくて、冷たくて、生きている感じがしなくて。きっと、あいつと寝食を共にしていた彼女には居心地のいい場所なのだろう。俺も…そう思うようになってきた。
息をするたびに罰を受けているようなこの感じが、やっぱり俺に幸せを感じる資格はないんだと思えて、どこか安心してしまう。

お休み、と呟いて目を閉じる。眠っていたはずの彼女がそっと体を寄せてきたのを感じた。

俺たちが今いるのは間違いなく地獄だ。
そして、最期に辿り着くのは、琵琶坂が待つ地獄の果てなのだろう。



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