濡れそぼった大型犬
2020.10.08 2020.11.06
「…やめろ」
眠気の残る舌っ足らずな言葉は覇気を失ったまま、温風を吐き出すドライヤーの音に掻き消されていく。
抵抗のつもりで宙を舞う手も力を失ったまま、頼りなく華奢な私の手に制止されている。
眼前には、普段は見下ろすことさえ叶わない彼のつむじ。
まだ、にわかに信じられない。私が彼の髪を乾かしてあげているなんて。
今日の我が家の社長様は相当疲れていることが分かる。その証拠に、洗面所で微睡んでいる彼の手からドライヤーをひったくることも、彼の手を引いて風通しのいいリビングまで連れてくることも、容易にできてしまった。普段の力関係なら、絶対に有り得ないだろう。
夢を見ているみたい。そう思いながら、彼の髪を無遠慮にわしゃわしゃと掻き回し、あたたかい空気を送り込んでいく。細かい水飛沫が飛ぶ。清涼感のあるシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。彼の髪は、私よりも短いのに、毛の量が多くてふわふわしてる。加減が難しい。自分の髪を乾かすときのようにはいかない。まるで…。
「やめろ…俺は犬じゃない…」
そう。まるで、犬みたい。ドライヤーの音で聞こえないのをいいことに、ふふ、と笑った。
彼の手が、目障りな虫を追い払うように邪魔をしてくる。何度もその手を掴んでは押し退ける。また、やめろ、という情けない声が聞こえた。
素直じゃないんだから。本当に嫌なら、いつもみたいに暴れればいいでしょ。
試しに、ドライヤーのスイッチを切ってみた。リビングが一気に水を打ったような静けさに包まれる。彼の抵抗もぴたりと止む。すごすごとコンセントを抜きにいく素振りを見せると、背中に視線を注がれているのを感じた。振り返ると、不思議そうに私を見る彼。
全く、わがままなんだから。堪えることもせず、くすくすと笑いながら、ソファに腰掛けた彼の後ろの定位置に戻る。ドライヤーのスイッチを入れ、再び彼の髪に触れる。
後ろ姿が、どこか満足げだ。無防備で、慢心し切っている。無意識なのかしら。たまには素直になってもいいのに。いや、彼は面倒くさい人だ。素直になったら負けだと思ってるのかもしれない。でも、私も彼の前であっても素直になり切れないところはあるわけで。
二人で、犬みたいに歩み寄って。犬みたいに尻込みして。こういう不器用な関係も、なんだかありだと思ってしまう。平和惚け…なのだろうか。
そうこうしているうちに、彼の髪を乾かし終えた。ドライヤーのスイッチを切り、コンセントを抜き、コードを束ねてテーブルに置く。
何気なく彼の隣に腰掛けると、彼が私の肩に遠慮なく頭をもたせてくる。重い。肩が凝りそうだ。
「ふん、ご苦労」
蛇みたいに細い目を更に細めて言う。肩があたたかい。まるで私までお風呂から上がったばかりのような気分になる。
「重いです」
「当然だ。優秀な脳が詰まっているからな」
はいはい。おめでたい頭ね。おもむろに手を伸ばして頭を撫でてあげる。地肌までしっかりと乾いて、さらさらとした触り心地だ。
すぐにはっとして手を引っ込めようとしたが、彼が気分よさげに口角を吊り上げているのを見たら、そのタイミングを失ってしまったのだった。