お大事に、部長くん

2020.07.21



何かがガサガサと音を立てながら床に落ちる音で目が覚めた。熱でボーッとした意識が少しずつ現実へと引き戻される。
音のした方に目をやると、そこにはなんと鐘太先輩がいた。焦ったような表情を浮かべたまま、屈んで床に散乱したものを拾っていた。
「鐘太先輩…?」
今日一日ほとんど誰とも話していなかったので、声が掠れた。でも、彼はしっかりと私の声を拾ってくれたようで、顔を上げた鐘太先輩とバチリと目が合った。
「部長くん!起こしてしまってすみません…」
散乱したものを手元のレジ袋に回収し終わった鐘太先輩は、立ち上がって小さく頭を下げた。
「お見舞いに来てくれたんですね」
鐘太先輩の顔を見たら元気が湧いてきた気がして、すぐさま布団を剥いで上半身を起こす。熱を持った体が外気に触れて寒気がしたが、全く気にならなかった。
「ああっ、無理に体を起こさなくてもいいですよ!」
「すみません。鐘太先輩が来てくれたから嬉しくて、つい…」
私の方に手を伸ばしかけた鐘太先輩の顔が、ほんのりと赤くなる。熱を出していなかったら、私も同じようなことになっているのがバレたかもしれない。

「…これ、頼まれていた差し入れです」
渡されたレジ袋には、冷却シートの箱とスポーツドリンクが入っていた。
「ありがとうございます、助かります」
熱が出始めた朝、帰宅部のグループチャットで『風邪をひいたので部活に顔を出せない』という趣旨の連絡をした後、鐘太先輩が個人的に『何か差し入れを持っていきましょうか』というWIREをしてくれた。申し訳ないと思いながらも、私は冷却シートとスポーツドリンクをお願いしたのだった。

「冷却シート、なくなりそうだったのでちょうどよかったです」
熱を吸収しなくなった冷却シートを額から剥がしていると、鐘太先輩が世話を焼きたそうに言った。
「…俺が貼り替えて差し上げますよ」
「いいんですか?」
「もちろんです」
彼は箱から冷却シートを出して裏側のフィルムを剥がす。
「さあ、おでこを出してください」
「はい」
いつもより近いお互いの距離を意識するのが少し恥ずかしくて、目を逸らしてしまう。サイドの髪を顔の両脇で押さえつけている私の額に、冷たい感覚が走った。
「ひゃ、冷たい」
「まだ熱があるんですか?」
「はい。でも、今日のお昼に病院に行って解熱剤をもらったので、一晩寝れば元気になると思います」
「そうですか。じゃあなおさら安静にしないといけませんね」
両肩を軽く押され、横になるように促され、布団を胸元まで引き上げられる。胸がドキドキしているのは、きっと体のしんどさだけのせいではない。

「この椅子、少しお借りしますよ」
鐘太先輩は近くにあった椅子をベッド脇に引き寄せて座った。
「…部長くん。大丈夫ですか?」
まるで子犬のように円らな瞳で私を見下ろしている。その表情はとても心配そうだ。
「大丈夫ですよ。心配しないでください」
そういえば、どうして鐘太先輩は差し入れを持ってくるだけでなく、わざわざお見舞いに来てくれたのだろう。学校帰りに男子が女子の家に行くなど、彼の中では不純異性交遊にあたるのではないだろうか。
「そういえば、どうしてわざわざお見舞いに来てくれたんですか?」
「本当はお母様に差し入れを渡して帰るつもりだったのですが、上がっていけと言うので…仕方なく…」
どうやらNPCがいらぬお節介を焼いたらしい。それにしても…。
「鐘太先輩一人でも帰るか家に上がるか選択できたんですね」
「ええ。自分でも驚きました。こんな情けない俺でも、君を見舞うことで少しでも元気を取り戻してもらえるのなら…と思っていたら、お邪魔しますと言っていました。これも、君のお陰ですね」
鐘太先輩が自分で選択ができてよかった。そう思う安堵の気持ちと、なんだか胸の奥がくすぐったくなる気持ち。それを誤魔化すように私は言った。
「あと、さっき鐘太先輩が差し入れを落とす音で目が覚めたんですけど、何だったんでしょうか」
「ああ、それはですね…君が眠っているのを見て改めて、俺のお見舞いに君を元気にする要素なんてあるのかと不安になってきてしまって。ドアを閉めて部屋を後にしようとしたら、差し入れをドアに引っかけて取り落としてしまったんです。なんだか情けないですね…」
「そうだったんですか。大丈夫ですよ。鐘太先輩がお見舞いに来てくれたというだけで、すっかり元気になりましたから」
「そう言っていただけると、嬉しいです。ありがとう」
鐘太先輩は白い歯を見せて笑った。それを見ている私まで笑顔になる。

「…部長くん、本当に大丈夫ですか?」
眉尻を下げた鐘太先輩が、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですよ。鐘太先輩は心配性ですね」
「大丈夫だと分かっていても心配してしまうんです」
右手にあたたかな感覚。鐘太先輩が、大きく無骨な手で私の手を握っていた。
「鐘太先輩…?」
「…君は大事な存在です。だから、俺の全てを受け入れてくれる君を失うのが怖いんです」
鐘太先輩の手の力が強まる。
「君と現実に帰れなくなったら…俺は…」
彼は、自身がした選択のせいで、全てを失った。だから、選択することに臆病になった。でも、私に全てを打ち明けることで、迷いながら、悩みながらも前に進むことを決めた。そんな彼が、唯一の理解者がいなくなったら…と思ってしまうのは、分かる気がする。
「大丈夫。私は鐘太先輩と、帰宅部のみんなと現実に帰るって決めたから。ここで…リドゥで死んだりなんてしませんよ」
「部長くん…」
「現実に帰ったら、鐘太先輩が生きる手助けをしなくちゃいけないですからね!」
私は鐘太先輩の手を握り返して微笑んだ。すると、それを見た彼の顔がぐにゃりと歪んだ。
「参ったな…色んな感情が溢れてきて…泣きそうだ」
「泣いてもいいですよ。ここなら私しか見てませんし」
「いや…涙は、現実に帰ったあと、君と大きなことを成し遂げたときまで取っておきます」
カタルシスエフェクトの目隠しを着けるように片手で顔を覆う。それが取り払われたあと、彼の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
現実でも、この優しい笑みをずっと隣で見ていたい。ふとそう思った。

「もうこんな時間ですね」
部屋に差し込む夕日を見て、鐘太先輩が呟く。
「そろそろ帰ります。君と一緒にいるのは楽しいですが、これ以上長居をすると悪いですからね」
私の手から彼の手が解けていくのを見て、少し心細くなった。
「はい。お忙しい中お見舞いに来てくれてありがとうございました」
「礼には及びませんよ。明日また会えるように、今日はゆっくり休んでくださいね」
鐘太先輩の大きな手が伸びてきて、私の頭をポンポンと撫でる。垂れてきた髪越しに彼の顔を見ていると、胸がぎゅっと苦しくなった。

鐘太先輩は、立ち上がって座っていた椅子を元の場所に戻し、部屋のドアを開け、大きな体を滑り込ませる。
「では部長くん、また明日会いましょう」
ひらりと手を上げる彼の姿を見ていると、私はなんだか胸に詰まっている感情を言葉にしたくなってきた。私は必死で重怠い体を起こす。
「鐘太先輩!」
「はい?」
「この前、『月が綺麗ですね』ってWIREをしたら『本当に大事なときにとっておくといいですよ』って言ってましたけど…」
もうこの際だから言ってしまえ。
「今がその大事なときなんですよ!」
…言った。言ってしまった。言うなればこれは、告白と同義だ。
鐘太先輩は目を見開いて、耳まで真っ赤になっている。
お互い無言のまま時が過ぎ、部屋のドアが静かに閉められた。

しばらく呆然としたあと、ぼふ、と音を立ててベッドに倒れ込む。顔が熱いのは熱のせいだけじゃない。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。清々しい気持ちだ。
明日、鐘太先輩に会うのが楽しみだ。そう思いながら、私は目を閉じた。



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