お前だからだよ

2020.04.06 



時刻は夕方。メビウス内の季節が秋に差し掛かってきているからか、日も短くなってきた。窓の外を見やると、ビルや家々が朱く色付いて煌めいていた。
デジヘッド狩りを早めに切り上げ、他の帰宅部員たちと解散した後、私と笙悟は部室に戻った。

私は、早く帰っても特にすることもないから、家に帰りたくない。
笙悟は、メビウスの家族がただのNPCだと意識してしまって、なんとなく寂しいから、家に帰りたくない。
そんなわけで、現実には帰りたいけどメビウスの家には帰りたくないひねくれ者の私たちは、部室で時間を潰すことにしたのだった。

笙悟はソファ、私は長机の近くの椅子に座り、お互いに有意義な時間を過ごしていた。
彼はゴシックロックの雑誌、私はお気に入りの小説を読みふけったり。
私が思い出したように今日あったことを話すと、笙悟が嫌な顔一つせずに律儀に反応を返してくれたり。

デジヘッドや楽士たちとの闘いや、新しい帰宅部員の参入などが重なっていたから、笙悟と二人きりになれる時間は本当に久しぶりだった。

やっぱり私は、笙悟と一緒にいる時間が好きだ。私のサバサバした気性を、彼の穏やかな気性が打ち消してくれるような、この時間が。
彼は私と一緒にいることをどう捉えているのかは分からないけど、私は彼といると安心するし、ありのままの自分でいられると思う。
見た目や年齢を好きなように偽ることができるここでは、「ありのまま」なんて綺麗事に過ぎないことは分かっている。それでも私は、肩の力を抜いて自然体のままで彼と接するのが好きなのだ。

「いででで…」
笙悟の苦しそうな声を聴き、小説から視線を外して彼の方を見る。ソファに腰掛けた彼は、大きな体を折り曲げ、右手の拳を背中に押し当てながら下を向いていた。

「笙悟、大丈夫?」
私は小説を長机に伏せて立ち上がり、すぐに彼の元に駆け寄る。
「ああ、大丈夫だ…」
笙悟がこちらに顔を向けた。髪の隙間から覗く右目が、痛みで歪んでいるように見えた。
「少し背中が痛むだけだ」
彼は私を心配させまいと微笑んで見せたが、私は彼が心配で気が気でない。

そういえば、戦闘後、背中の痛みを我慢しているような彼の様子を何回か見ていた。だが、声を掛ける以外、何もしてあげられなかった。これでは相棒失格だ。

「何もしてあげられなくて、ごめんね」
声にならない声で呟いて下を向く。

「謝るなって!多分、疲れが出たんだ」
私の頭の上にポンと何かが載った。前を見ると、彼がまっすぐ私を見据え、こちらに向かって手を伸ばしていた。頭の上に載っているものは、彼の大きな手だった。
「お前のせいじゃない。気にすんなよ。俺がギリギリまで我慢しちまうのが悪いんだ」
髪をくしゃりと撫でられる。後れ毛が視界に垂れてきたが、それでも彼の優しげな笑顔ははっきり見えた。
「お前はよくやってるよ。いつもありがとうな」

感謝。安堵。驚き。色んな感情がぶわっと押し寄せてきて、今にも泣きそうになる。
しかし、感情に溺れる脳内の一部で、私は今の状況について冷静に考えていた。
今日の笙悟は何かがおかしいんじゃないかと。

笙悟って、優しいけど、奥手で、ヘタレで、自分の思いを表したり、行動に移したりするまでになかなか踏み切れない…そんな人じゃなかったっけ?
なのに、こんな自然な動作で私に…。

ついでに言うなら、今日の私も何かがおかしい。いつもと違う笙悟のペースに乗せられているような。
呼吸がしづらい。胸が苦しい。顔がカッと熱くなる。心臓の鼓動が早い。こんな不思議な気持ちになるのは、現実にいたとき以来だろうか。メビウスでは、これが初めてだ。
今まで全く気付かなかったけど、もしかして私は…。

「ん?どうした?」
笙悟は私の頭の上に手を置いたまま、いつもの調子で私の目を見つめ返している。
「あ、あの…」やっとの思いで絞り出した声は掠れていた。「こちらこそ、いつもありがとう」
「おう!…てかお前、風邪でも引いてるのか?顔真っ赤だぞ。頭も熱いし」
「…私は大丈夫だから」
笙悟の手を退けようとしたが、体がガチガチに固まっていて腕が思う通りに動かない。私は仕方なく、視線を逸らしつつ、声を潜めて言った。
「えっと、救急箱持ってくるからそろそろ手を…」

「へ?あっ!うわっ!悪い!」
笙悟は今までと打って変わって間の抜けた声を出し、酷く狼狽えた。頭の上の手がパッと離されたかと思うと、申し訳なさそうにシュルシュルと戻っていく。
「あ、あ、えと、俺はお前を元気づけようとしただけで、その…あの…」

私は思わず吹き出した。いつもの笙悟だ。

「んだよ…笑うなよ~」
彼は口元を押さえ、眉に皺を寄せて恥ずかしがっている。
「はいはい、ごめんごめん。じゃあ、今救急箱持ってきてあげるからね」
「おう…サンキュ」

顔をくしゃっとさせて微笑む笙悟を横目に、私は部室の棚へ向かい、木製の救急箱を取り出す。同時に、笙悟に見られないように、熱くなった顔を救急箱を抱えていない方の手で覆う。クールダウンが目的だったが、手も同じくらい熱かったので何の意味も成さなかった。

「部室に救急箱なんてあったんだなぁ」
背後から投げかけられた彼の声に、心臓がびくりと跳ねる。とりあえず乱れた髪を整えているふりをしながら言った。
「部員のみんなが怪我をしないか心配だったから、一応準備しておいたの」
「おお、さすが!部長は頼りになるな」
救急箱を長机に置き、確か湿布があったはず、と呟きながら中身を探る。紙のようなものに触れた感覚がした。取り出してみると、湿布が入った袋だった。私が踏んだとおりだ。
袋から湿布を1枚取り出す。湿布特有の匂いも抑えられている、大きめの湿布。体の大きい笙悟にぴったりだ。
「湿布があったから、これで応急処置して様子を見ようか」
笙悟に湿布を見せながら言った。

「おう!じゃあ、申し訳ねぇけど頼むわ」
笙悟はソファからゆっくりと立ち上がると、襟元を彩る花柄のスカーフに手を掛けてほどいた。しゅる、と音を立てたそれは、ソファの上にはらりと落とされる。
普段見えなかった彼の首筋や喉仏が露わになる。
私はそれに釘付けになった。

「えっ…」
「どうした部長?スカーフを外した俺がそんなに珍しいか?」

頭が真っ白で、笙悟の言葉に応えられなかった。体が石になったかのようにガチガチに強ばっていて、声が出せない。

一体何?この状況は?

私が何もできないでいる間に、彼はブレザーのボタンを外し、ブレザーを脱いだ。それはソファーの背もたれ部分に掛けられた。目の前には、ブレザーの中に着ている黒い服だけを纏った彼がいる。

何で笙悟は服を…?

笙悟の手が躊躇無く黒い服の襟元に掛けられる。私はもう見ていられなくなって、床に視線を落とした。するする、という衣擦れの音が耳をくすぐる。視界には嫌でも彼の肌の色が入ってくる。それが恥ずかしくて、顔も熱くて、両手で顔を覆った。

「笙悟っ…なっ…何してるの?」
「ど、どうした!?何って…手当てしやすいように脱いでるんだが…あっ…すまん」
申し訳なさそうな彼の声が気になって、手で器用に彼の体だけを視界から隠すようにしながら彼の顔を見た。
「急に女子の前で脱ぎ出すとか、変態みてぇなことしちまったな…すまねぇ」
笙悟も私と同じように顔を赤くして、髪を前から後ろに掻き上げていた。
「そ、そうだよね!手当てしやすいように、脱いでくれたんだもんね…私もびっくりしちゃってごめん」

そうだ。服を脱がないと湿布が貼りにくいじゃないか。私は何を考えてるんだ。
顔から両手を離してはみたが、まだ慣れなくて笙悟を直視できない。

笙悟は、椅子をたぐり寄せ、背もたれが体の右側にくるように配置し、私に背を向けて座った。
私も近くにあった椅子を笙悟の近くに引き寄せ、座る。

私の目の前には、笙悟の大きな背中があった。それは、余計な肉がついておらず、引き締まっていた。だが、背中の痛みからか、それとも元々猫背気味なのか、猫のように丸まっていた。

内心恥ずかしくてどきどきしていたが、このままではいけないと思い、腹をくくった。

「えっと…この辺り?」
手汗をスカートで拭きつつ、笙悟の背中に触れる。がっちりしていて、骨張っている感覚がダイレクトに手のひらに伝わってくる。女の私とは全然違う体のつくりだ。
「いてて…そこらへんだな」
長机の上に置いていた湿布を手に取り、裏紙を剥がし、患部にぺったりと貼りつける。
「ひぃ~っ!」
笙悟が、湿布の冷たさに驚いて小さく声を上げ、背筋をピンと伸ばした。
それがおかしくてふふふと笑う。笙悟は自分の体を抱き締めるように身を小さくして、笑うなって、と呟いた。

いつもの笙悟を見ていたら、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
…よし。これでいい。言おう。
胸に手を当てながら、ゆっくり深呼吸して。

「…今日の笙悟、何か変じゃない?」
私から切り出した。

「へ?何が?」
笙悟が間の抜けた声を出す。
「いつもより余裕があるところとか…」
心臓の鼓動が早くなるにつれて、声が小さくなる。
「す、スキンシップを嫌がらなかったり、するところ」
「…嫌だったか?それは…すまん」
笙悟が本気で落ち込んでいるような声を上げる。胸が痛むから、止めてほしい。

「嫌じゃないけど、笙悟って、女の人…苦手じゃなかった?平気なの?」

笙悟の心には、片思いしていた女性を失ってできた傷がある。それは、私が彼の話を聴こうと、あれやこれや行動しようと、消えることはない。
鋭い観察眼を持ち、同じく異性にトラウマがある彩声は、それを早々に見抜いていたようだが、私は彼の話を聴くまで分からなかった。
WIREで異性の話題を出すたびに、どこか自虐的になる彼を見て。ソーンという楽士の曲を聴くたび嗚咽を漏らし、身を震わせる彼の姿を見て。部長として、常に一番近くにいて。それなのに、わざわざ彼の心にずけずけと踏み込むような真似をしなければ分からなかったのだ。

私は、彼が無理して女の私に付き合っているんじゃないかと、常に心のどこかで心配している。今だってそうだ。

笙悟といることは好きだ。しかし、それは私の主観だ。彼はそうじゃないかもしれない。女の私と話すたびに、彼は一凜さんのことを思い出して死ぬほど苦しい思いをしているかもしれない。今、目の前でこちらに背中を向けている彼は、私に気付かれないように悲しい顔をしているかもしれない。

そう思ってしまうと、私のマイナスな考えは止まらない。
自然と笙悟の背中に貼った湿布から手が離れる。

「一凜のことが頭をよぎるのは…今でもある。でも…そのときはお前に貰った言葉とお前のことを思い出して、自分を励ましてるよ」

「えっ…」
思わず驚いて顔を上げる。
髪に隠れた笙悟の耳が真っ赤になっている。勇気を出して言ってくれたことが見てとれる。

私が彼の力になれているなんて。こんなに嬉しいことはない。
「女の私といても、平気ってこと?」

「あーもう!言わせんなよ!!」
笙悟が急に体をこちらに向けた。
普段は服で隠されている裸の彼の体が、目の前に、すぐ近くに…。
「わっ!?」
私は慌てて両手で顔を覆った。しかし、笙悟は強引に私の両手首を掴んで、顔から両手を引き剥がしてしまった。

「な…な…」
何するの、さえ言えずに頭を下げて視線を床に落とす。気付けば、私の太ももと彼の脚が密着していた。視界にはやはり彼の肌の色がちらつく。いつも何気なく接しているはずの彼の顔が見られない。湯気が出そうなほど顔が熱い。

彼の手は熱く、手加減はされてはいるが力がこもっている。少しも動けない。彼の肌と髪の香りがする。肌が触れてもいないのに体温を感じるほど、彼の顔が至近距離にある。心臓の鼓動が五月蠅くて、胸が苦しい。

「女子と一緒にいても平気になったとか、そういうんじゃねぇよ」
笙悟の低い声が、空気を震わせる。胸の奥底まで響く、心地よい声だ。胸がぎゅっと痛くなる。

「…お前だからだよ」

「へっ…?」

頭上から降ってきた言葉の意味が理解できず、呆けた声を出してしまった。

えっ?えっ?女の人と一緒にいても平気になったわけじゃない?私だから平気?どういう…思考がついていかない。まず、なんでこんなに近いの?普段は私がぐいっと近付いたら顔を真っ赤にしてお前、近いって!って言うくせに。いつの間にか私と彼の立場が逆転していることを実感する。

「えっと…その…ごめん、どういうこと?」

私がやっとのことで顔を上げながら尋ねると、目を丸くして驚いた様子の笙悟と目が合う。笙悟が両手の力を緩めて顔を反らし、はあ…と大きな溜め息をついた。

へ、変なこと言っちゃったかな?

とりあえず謝ろうとしたそのとき、彼が急に両手首を掴む手に力を入れ、引っ張ってきた。
ちょっと待って、タダでさえ顔が近いのにそんなことしたら…!

そう思っている間に、私の唇は彼の唇と重なってしまった。

彼の髪が顔の左側に当たるくすぐったさ。唇の柔らかさ。お互いの脚が触れ合っている部分の熱さ。
頭の中は真っ白なのに、感覚だけが過敏になる。

何もできないまま、彼の黒い瞳を見つめていると、彼がそっと唇を離した。
無言で固まってしまった私を見て、彼は優しく微笑んだ。

「お前が好き、っていうことだよ」

スキ…。
スキ…?

私が彼の言葉を呟いて言葉の意味を反芻していると、彼はいつもの調子に戻り、顔を真っ赤にしてあたふたと慌てた。
「す、すまん…!俺の気持ちを一方的に押し付けちまって…!あ、あの!俺のこと嫌だったら、嫌って言ってくれよな!頑張って、すっきりさっぱりお前のこと諦めるから!!うん!!」

笙悟は、あわわ、と呟きながら手を宙に漂わせている。その情けない手つきは、先程まで私の手首を掴んでいたとは思えないくらい弱々しかった。

そうか…。
私…。

熱い両手を頬に当てて、深呼吸する。まだ鼓動は正常値に戻らない。
「笙悟っ!!」
彼をまっすぐ見て叫ぶ。

「は、はひっ!?」
彼は宙に漂わせた手を握り締めて体をびくっとさせた。

椅子がガタンと大きな音を立てるのもお構いなしに勢いよく立ち上がり、彼の膝に載り、首に腕を巻き付けるようにして抱きついた。

あったかい。
さっきまで見るのも触れるのも恥ずかしかった笙悟の体が、愛おしくて愛おしくて仕方がない。

そうだ。当たり前すぎて気付かなかった。
私、笙悟が好きなんだ。

「キャアアアア!?」
女の子みたいなリアクションをする彼の声を耳元で感じながら、顔を上げてきっぱり言った。
「私も笙悟が好きだから!」
「へっ!?」
笙悟の体が固まる。
現実じごくでもよろしくね!」
「えええええええ!?」
ついには、両手で頭を抱えた。

「やっ…やったぁ…?」
実感が湧かないと言いたげな様子だが、彼は零れんばかりの笑顔を浮かべていた。

私もとびきりの笑顔を見せて言った。
「もっと喜んでもいいんだよ、笙悟」

「よっ…よっしゃあああああ!!」
彼が背中に手を回して強く抱き締めてくる。ちょっと苦しい。
「よしよし」
せっかくお互いの想いが通じ合ったのだから、私も思いきり抱き締めたかった。しかし、彼の背中の痛みがぶり返すと可哀想なので、頭を撫でるだけにとどめてあげる。

心臓が力強く拍動して、胸は苦しいままだ。
でも、悪い気はしない。



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