とある春の日

2021.12.01



「わあ」
歩く足を止め、思わず感嘆の声を上げた。
頭上では満開の桜が溢れんばかりに咲いている。もこもこと生命力豊かに咲くそれは、まるで桃色の雪が茶色の枝にのしかかっているようにも見えた。強い春の風に吹かれ、花弁がはらはらと吹雪のように散っていく。桜の柔らかな桃色とその隙間から垣間見える空の透き通るような青色の対比が鮮烈で、私たちは今、春の真っ只中にいるのだ、と思えた。
「綺麗ですね」
別に同意を求めている訳ではないが、私は思わず彼に聞こえるようにそう呟いた。

足音を聞いてそちらに目をやると、私より少し遅れて歩いてきた彼がいた。気晴らしに散歩でもするかと言い出したのは彼なのに、その足取りはやや気怠げだ。
彼も私の傍に来て足を止めると、天を仰いだ。
「…そうだな」
そしてすぐ私を感情の籠らない冷たい目で見下ろす。
「でも桜なんて、あのクソったれな世界でも見られたんじゃないのか」
「彼女が作った世界でも桜は綺麗でしたけど、やっぱり現実で見るのが一番ですよ。それに、メビウスでゆっくりしていたらすぐ学年が上下しちゃいますし」
「確かに…もう少しグズグズしていたらお前に呼び捨てにされるところだったな」
「でしょう?」
それに、誰にも邪魔されずに貴方と二人きりで桜を見たかったですし。なんて言ったら調子に乗っちゃうから言わないでおこう。

彼が無言でじっと私を見つめてくる。彼のことだから、私を『桜みたいにすぐ散りそうな奴だ』とか思っているんだろう。私もそう。彼なんてとても悪い人だし、ろくな死に方はしないんだろうな、と思っている。

突然、彼の赤茶色の髪にはらり、と桜の花弁が舞い降りた。
「あっ」
思わず彼の方に手を伸ばす。

その瞬間、私の腕と彼の腕が交差し、お互いの時が止まった。風でざわざわと揺れる桜の木や降り注ぐ桜吹雪、細くたなびく白い雲は私たちを置き去りにして、そのまま動き続けるばかりだった。

おもむろに動き出した私の指が、彼の髪に引っかかった花弁を摘み上げる。
「これ。付いてましたよ」
「…そうか」
私が彼に花弁を見せると、彼の腕は何事もなかったかのように引っ込んでいった。それを見て私は不思議に思い、髪を両手でサッサッと払った。
「私の髪にも何か付いてましたか?取れました?」
「いや…何でもない」
「そうですか」
彼が目を合わせようとしないのを見て、さっきまで私の目をまっすぐ見ていたのに妙だな、と思ったが、気にしないことにした。
「結構歩きましたし、そろそろ帰りましょうか」
私は踵を返して再び歩き出す。彼の返事はない。

すると、彼の足音が近づいてきて、頭の上に大きくあたたかいものが載った。彼の手だ、と気付くと、髪をくしゃりと撫でられる。視界に髪が垂れ下がった。
彼の手が離れていく。大きな背中を見ながら茫然としていると、彼が私の方を振り返って言う。
「何してる。帰るぞ」

ばつが悪そうに早足で歩いていく彼を見て、思わず口元に笑みが零れる。
そういうことだったのね。
視界に垂れ下がった髪を払うと、私は忠犬のように彼の元に駆けていくのだった。



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