運命の人

2021.12.06  2021.12.08



瞼をゆっくりとこじ開ける。いつもの白く高い天井が俺を見下ろしている。
昨夜は仕事から帰って来るのが遅く、眠りは浅いまま推移していた。だから、自然と目を覚ますことができた。
朝か。
数回瞬きをして、隣に寝ている奴の方に目をやる。しかし、そこには奴はいなかった。
思わずやや怠い体を起こす。カーテンの隙間からは白い春の朝の光が差し込んでいるのが見えた。時計を見るとまだ5時。しかも、俺が休みの日の朝5時だ。昨夜何か奴に伝えた覚えもないのに、なぜ奴は早起きしている?不思議に思った俺は早々にベッドから抜け出て、奴がいるだろうリビングに向かうことにした。

廊下を通り、少し開けたドアからリビングの中の様子をそっと覗いてみる。カーテンを開け放した大きな掃き出し窓の傍で、電気も点けずに奴が一人座り込んでいる。薄暗い部屋の中で、その背中は小さく、頼りなく見えた。
「…律?」
久しく呼んでいなかった奴の名前を呼び、ドアに体を滑り込ませる。
すると奴はぴくりと反応し、俺の方に体を向ける。
「…おはようございます永至さん」
どこかぎこちない笑みを浮かべた奴の顔を見ながら近付く。
「どうしたんですか、こんなに早く…」

俺は奴が捲った袖を下ろすのと何かを後ろ手で隠したのを見逃さなかった。

奴と同じように座り込んで目線を合わせると、後ろに回された腕をがっしりと掴む。奴は珍しく、しまった、と言いたげな顔をしていた。
「何か隠しているな、出せ」
奴は数秒動きを止めたが、観念したのか後ろ手に隠していたものを差し出した。

安っぽい小型のカッターナイフだった。
カチカチと音を出して刃をしまい、フローリングに置く。

「そっちの腕も見せろ」
奴は少し躊躇ってから袖を捲って俺の方に腕を差し出した。

奴の白い腕は手首から肘裏まで赤く腫れ上がり、赤い血が玉のように溢れた傷がいくつもできていた。
腕を取り、指先でぼこぼこと腫れ上がった傷をなぞると、痛みを感じているのか奴は口元をぐっと結んだ。俺が手を離すと、奴はすぐに腕を引っ込めて袖を下ろした。

「朝っぱらから俺に隠れて何してるんだ」
奴は下を向いたまま、何も言わない。いつもならすぐに言葉を返すのに。
「そんなことしても痛いだけだろ」
奴の呼吸音さえ静かで、ここには俺しかいないみたいだ。ここで長いこと2人で住んできたのに。
「それともなんだ、俺に言えないことでもあるのか」

「…ええ」
やっと奴が口を開いた。
「たくさんありますよ。貴方にさえ言えないこと」
そのとき、なんとなくではあるが、奴の心の奥に踏み込んだ…ような気がした。
「私がメビウスに来る前にどんなことをしてきたのか…家族はどんな人か…それらはまだ話す自信はありません。でもこれだけは言えます」

「空っぽなんです、私。確固たる『自分』が存在しないんです」

空っぽ。その言葉は俺の胸の奥深くに空虚に響いた。

「貴方と出会ってから、色々あるけど毎日が楽しくて。でもその反面、こんな空っぽな私が貴方の傍にいてもいいのかな、って思うようになって」
奴は首を絞められたかのように顔を歪ませて笑う。
「苦しいんです」
服の上から自分で作った切り傷に触れるようにしてから言葉を絞り出す。
「…もう死んでしまいたいとさえ思うんです」

死んでしまいたい。そう言われて、特に驚きはなかった。俺もこいつも種類は違えど、死に近い人間だと思っていたから。

他人が苦痛を感じているだの、死を考えているだの、俺の人生には何の関係もないことだ。勝手に苦しんで勝手に死ねばいいと思う。
ただ、目の前の女は違う。頼まれれば、同類としての敬意を持って殺してやりたいと思う。できるなら、共に地獄の果てまで行きたいと思う。
どうする?どうすればいい?こいつに俺の傍にいてもいいと伝えるにはどうすればいい?
長いこと迷ったあげく、俺は、決めた。

奴の右手を取って、薬指に嵌められた指輪をするりと外す。奴の体温に温められた銀色の輪は、部屋に差し込んだ明かりを集め、青白い光を放っていた。
呆気にとられたような奴の顔を見ながら、今度はもう片方の手を取って、また薬指に指輪を嵌め直す。
「…どんな感じだ?」
奴は窓の方に左手をかざしながら不思議そうな顔をして言った。
「なんだか…変な感じが、します」

微睡んでいるような声を聞いて、ふっと笑いながら、俺も右手の薬指から指輪を外し、左手の薬指に嵌め直す。拳を握ったり開いたりしてみる。利き手に指輪をしたことがない俺からすると、やはりこいつの言う通り、変な感じがした。ただ、嫌な感じはしない。
「律」
右手で奴の頬に触れる。その手に重ねられた奴の手の指輪が静かに光った。

「結婚してくれ」

俺の言葉に、奴は目を見開いて驚いた顔をした。
「えっ」
奴は俺が仕事の成功話をしたときよりも目を丸くしていた。当然だ。俺は結婚なんてするような柄じゃない。
こんなことに不慣れで言葉が思いつかない。頭の回転が一気に鈍ったような感覚に陥る。まるで俺が奴に懇願しているようだ。
「お前は俺の傍にいてもいいんだ」
「でも…私…」
「俺が選んだ女なんだ、当然だろう」
「…」

突然、奴の顔が紙を丸めたようにくしゃりと歪む。薄い色の瞳の輝きが揺らぐ。唇が震え、一拍遅れて透明な雫が瞳から零れ落ちる。
こいつの泣き顔なんて、初めて見た。俺がどんなに怒鳴っても涙一つ見せなかった女が、今、泣いている。心の表面は何も感じなかったが、その奥深くではどこか泣きたいような気分になった。
「私、で、いいんですか…?」
俺の手を掴む手に力が籠もる。
「ああ」
「こん、な…空っぽでも…?」
「空っぽなわけあるか」
お前が空っぽな人間だったら、俺の中はこんなにお前でいっぱいになっていない。その言葉はうら恥ずかしくて、言えなかった。
「俺はお前がいいんだ」
奴の頬に当てていた手を離すと、その華奢な体を抱き締めた。腕の中の女はすすり泣きながら、精いっぱい腕を伸ばして抱き締め返してくる。
婚姻関係なんて形だけの代物だと思っていたが、自分を空っぽだと言うこいつに居場所を作ってやれるのだから結ぶ価値はあるな、と思った。

腕の傷の手当も朝食の準備も忘れて、2人こうして長いこと身を寄せ合っていたのだった。



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