2つの指輪
2021.12.28 2022.01.09
喫茶店の席に座り、待ち人をが来るのを待つ。店内では、軽やかな色の春の装いをした人たちが思い思いの時間を過ごしている。家で一人彼の帰りを待つのに慣れているせいか、外で待ち人を待つのはなんだか落ち着かない。
注文したコーヒーを飲みながらメニュー表を眺めていると、聞き覚えのある柔らかな声がした。
「部長!」
顔を上げると、そこには大人びた雰囲気の可憐な女性がいた。その愛らしい顔にかかった淡い茶色の髪を、ピンクが施された指先が払い、彼女は微笑む。私は無意識に彼女の名前を呼ぶ。
「彩声」
彩声は嬉しそうに笑うと、私の目の前に腰掛けた。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところ」
眺めていたメニュー表を手元に置くと、彩声がそれを引き寄せ、同じくコーヒーを注文した。
「…久しぶりだね、部長」
向かいあった彩声はやや緊張しているように言った。
「うん。元気だった?」
「元気だよ。ネイリストの仕事も楽しくやってるし。まだ男の人は怖いけど」
「そっか」
店員が運んできたコーヒーの揺れる水面を見てから切り出す。
「お父さんの手紙の返事は書けた?」
「そう!それそれ!それを一番に部長に伝えたかったの!」
彩声はメビウスにいたときに見せたような少女めいた笑顔を浮かべて身を乗り出した。
「この前やっと手紙の返事、書けたの!『お父さん、いつも心配してくれてありがとう。私は元気です』って!」
驚いた。思春期からの男性不信、凄惨な事件による男性への恐れや憎悪。彩声のトラウマは根深い。だから、もう少し時間を要するものだと思っていた。
「…すごい。すごいよ彩声。よく頑張ったね」
手を伸ばして身を乗り出している彩声の頭を撫でる。すると彩声はみるみるうちに表情を変え、眉をハの字に下げ、目に涙を浮かべた。
「うんっ…私、部長に親身に話を聞いてもらったから、頑張ったよ…」
彩声は目元を指先で拭うと、優しく笑ってみせた。
「部長のお陰で今の私がいるの。ありがとう、部長」
つられて私も微笑む。彩声が救われたのなら、彼女の心に踏み込んでよかった。
「…ところで、そのネイルお洒落だね。誰かにやってもらったの?」
机の下に引っ込めようとしていた手に施されたネイルを指摘され、ぎくりとする。さすがネイリスト。ネイルはさすがに見逃さないか。
「こ、これね。自分でやってみたの」
「そうなの?へー!部長って赤も似合うと思ってたけど青も似合うね~!」
彼が好きな色だからね。なんて口が裂けても言えない。
「それに、私がプレゼントした指輪も着けてくれてる…」
「うん。気に入ってるの、これ。似合う?」
右手の薬指には、いつもと違う指輪が嵌められている。前に彩声に会ったときに改めて現実でもプレゼントしてもらった、メリケンサックのようなデザインの指輪だ。
「う…うん。似合ってる…着けてくれてありがとね…」
彩声はコーヒーカップを両手で持ち、口元を隠す。それでもなお、赤くなった頬と耳ははっきりと見えた。
メビウスにいたときから、彩声の好意には気付いていた。彼女のまっすぐな想いは、嫌いではなかった。彼女は優しさと芯の強さを合わせ持った女性だ。私が彼女に恋愛感情を抱かなくとも、彼女と一緒にいるのも悪くはないだろうとも思う。
しかし、私はなぜか彼に惹かれ、彼と共に在る。彩声が信用できないと言い恐れていた彼と。彩声はこのことを知ったら傷付くだろうか。
「部長こそ元気だった?仕事とか順調?」
「う、うん…」
仕事の話題を振られてしまった。どうしよう。
「…実は色々あって仕事辞めてさ。今新しい仕事探してるとこなんだ」
「そうなんだ。いい仕事見つかるといいね」
彼に仕事を辞めさせられてしまったなんて言えない。
「ふぅ。ここ来るの2回目だけど、女の人多くて安心するね」
「…でしょ?ネットの口コミに『女性でも気軽に行ける喫茶店』って書いてあったからいいなって思ったの」
カランカラン、と軽やかな音がした。聞き流して彩声との会話を続けようとした瞬間、なんだか嫌な予感がした。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「いや、連れを迎えに来ただけなので」
おかしい。毎日聞いている彼の声がする。彼は仕事中のはずなのに。私がここに来るなんて言ってないはずなのに。目の前の彩声は、この小さな喫茶店に似合わない男の気配を感じ取り、顔と体を強ばらせて、机上の一点を見つめている。
尊大な靴音は、迷いなくこちらに向かってきた。何かの間違いじゃないかと彩声と同じように下を向いていると、視界に革靴が入り込む。間違いない。毎朝彼が履いているものだ。今朝も見た。
「律。ここにいたんだね」
恐る恐る顔を上げると、そこにはやはり仕事帰りと思わしき彼がいた。ビジネスバッグにジャケットを掛け、顔面に仮面の笑顔を貼り付けている。
彼が彩声の近くで声を発したせいか、彩声は体をびくりと震わせ、顔を背け、両手でコーヒーカップを握り締めていた。
「仕事が早く終わったから寄ってみたんだ。こんなところで会えるなんて奇遇だね。隣に座ってもいいかな?」
私が仕方なく席を詰めると、彼は遠慮なくドカッと腰掛けた。
「ひっ…!」
彩声が耐えられないといった様子で頭を抱え、短く叫ぶ。その様子を冷たい目で一瞥した彼は、一瞬仮面の笑顔を崩し不快な気分を露わにした。
色々言いたいことはあったが、まずは彩声の負担を減らしたかった。
「…あの、彼女、私の友達で…男の人が苦手なんです」
「ああ。そうなのかい。それは悪いことをしたね」
悪いことを悪いとも思わない口が語る。
「申し遅れました。僕は律の恋人で社長をしている琵琶坂永至と申します。律がいつもお世話になっております」
彼が馴れ馴れしく私の肩を抱いてくる。しまった。彩声に秘密にしていたことがことごとくバレてしまった。
「琵琶…坂…?」
彩声が彼の言葉に反応し、ゆっくりと顔を上げる。
「もしかして…琵琶坂先輩なの…?」
彼も彩声の言葉から全てを察したようだ。
「君は…もしかして天本君かい?」
「いや~驚いたね。こんなところで会うなんて」
彼は私の肩に回すのを止め、寛ぐように頬杖をついた。
「…私もびっくりした…もう一生関わらないと思ってたから」
彩声の声、それにコーヒーカップを握り締めた両手が震えている。彼と視線さえ合わせられないようだ。
「君も隠れてこそこそ会わなくてもいいのに。メビウスで一緒に戦った仲だろう?」
彼が二人きりのときではありえない『君』なんて二人称を使いながら私を見てくる。その目はいつも通り冷たい。
「…彩声にはできるだけ、男の人を会わせないようにしたかったんです」
「ふぅん、そうなんだ」
彼はどうでもよさげに呟き、また彩声に向き直る。彩声がびくりと体を震わせる。
「何が原因かは知らないが、そこまで男性が苦手だと、働く場所も限られてくるよね。今は何の仕事をしているんだい?」
彩声が机を見つめたまま声を絞り出す。
「…ネイルサロンで働いてる」
「ほう。ネイルサロンか。従業員も客も女性だけだから、天本君にぴったりじゃないか。ちなみに僕はIT企業の社長をしてるんだ。大変な重責だし苦労も人一倍だけど、従業員がやりがいを感じてくれて、笑顔で仕事をしてる様を見ると疲れも吹き飛ぶんだ」
まさかメビウスで吐いた嘘が現実になるなんて。そう思いながら彩声の様子をちらりと見る。人との関係を大事にする優しい性格の彼女が、相槌も打てないほどの恐怖に苛まれている。彼がどこで私たちがこの喫茶店で会うことを知ったのか分からないが、もう少し遠くで会えばよかっただろうか、と思った。
「…部長」
彩声がふと顔を上げて私を呼んだ。その顔は、どこか不安げだった。
「さっき琵琶坂先輩が部長を恋人って言ったけど、本当なの?」
隣を見ると、てっきり自分の功績を褒め称えられると思っていた彼が面食らった顔をしていた。
「無理矢理付き合わされてるんじゃないの?」
想いを寄せている女性がこんな怪しい男と想い合っているなんて信じられない。彩声の表情から、そんな気持ちが読み取れた。
「違うよ」
深く考えるより口から言葉が出る方が先だった。
「私は好きで一緒にいるの」
彩声の目をまっすぐに見ながらそう言うと、彩声の表情は暗雲が立ち込めたようなものに変わる。私を信じたい気持ちはあるものの、まだ疑いは晴れないようだ。
隣から喉の奥を鳴らすような低い笑い声が聞こえたと思うと、顔を両手で挟まれて彼の方を向かされる。彼の顔がぐっと近付いてきて、その睫毛や唇の輪郭が曖昧になる。
まずい。
唇が重なる直前で、両手で彼の口を塞ぐ。
「…駄目ですよ。こんな人前で」
口元を隠しても、蛇の両目のように鋭く細められたそれが、不機嫌さを物語っていた。
彼の顔が離れると同時に口を塞いでいた両手を取り去る。
「やれやれ。天本君に信じてもらうにはこれしかないと思ったんだがね」
「こんなことしなくても彩声は信じてくれますよ」
私は彩声の方に向き直って言う。
「ごめんね彩声、見苦しいもの見せちゃって」
彩声は、口元を拳で隠し、目を見開いて私たちを見ていた。その目からは、戸惑いや嫉妬など、複雑で人間らしい感情が見て取れた。少なくとも彩声を傷付けてしまったことは分かる。先程まで彩声の踏み出した一歩を共に喜んでいたのに、一瞬で絶望の闇の中に落としてしまった。胸の奥が痛む。彼と共に過ごす日々の中では感じられない、血の通った痛みだ。
「…大丈夫。もう琵琶坂先輩と部長が恋人同士だってこと、ちゃんと理解できたから」
彩声は少し残っていたコーヒーを飲み干すと、席から立ち上がった。そのまま深呼吸すると、足でタイルを一歩一歩踏みしめるようにして彼の目の前に来た。
「琵琶坂先輩に…言いたいことがあるの…」
「なんだい?」
彼はすくっと立ち上がる。長身の彼が一歩前に出ると、彩声は「ひぃっ!」と声を上げて体を庇うように両腕を前に出す。
「言ってみたまえ」
こちらから彼の表情はうかがい知れないが、余裕めいた笑みを浮かべているに違いない。
「…部長に…」
華奢な脚を震わせながら、両手を握り締めた彩声は、彼を睨み付けるように見上げて言った。
「部長に酷いことしたら、許さないから!」
彩声の想いを打ち砕いてしまったことは心苦しいけど、彼女の優しさが、ただ嬉しかった。
彼は何も答えなかった。ただ、彩声を見下ろしているだけだ。
彩声は恐怖でやや強ばった笑顔をこちらに向けた。
「…部長。今日はもうお開きにしよう。今日は私が奢るから」
「え、でも悪いよ」
「いいの。この前会ったとき、部長に奢ってもらったでしょ」
「う、うん…」
急いでコーヒーを飲み干す。苦味がやけに強く感じた。
「じゃあ僕は外で待ってるね」
彼がビジネスバッグとジャケットを持つと、彩声の脇をスッと通り、何か思い出したように振り向いた。
「天本君」
彩声は体を跳ねさせ、下を向いたまま彼の声に耳を傾けた。
「安心しなよ。僕、部長君のこと、幸せにするから」
彼は人懐っこく見える笑みを浮かべながら言い、そのまま尊大な足取りで喫茶店を出て行った。
「何?痴話喧嘩?」やら「どうしたのかしら」やらでひしめく店内で会計を済ませると、喫茶店を出る。
「今日はその…ごめんね」
「謝らないで。多分琵琶坂先輩も部長が心配で来たんだと思うし。また別の日にゆっくり会おうよ」
「うん…ありがとう。久々に会えて楽しかった。またね」
「またね」
彩声は優しい笑みを浮かべると、手をひらひらと振り、駐車場の方に消えていった。
メビウスにいるときから怪しいと思っていた男が現れ、その男は片想いをしている女の恋人だと判明するなんて。申し訳ないことをしたな。そう考えていると、いつの間にか背後にいた彼に手首をぐっとがさつに掴まれる。いつもの彼だ。
「痛っ…」
そのままぐいぐいと引っ張られながらふらふらと歩く。しかし、こっちは駐車場じゃない。
「こっちは駐車場じゃないですよ」
彼は私の言葉を聞かないまま、言うことを聞かない犬を引っ張り回すようにずんずんと歩く。喫茶店の前の道路を横切ると、石段があった。石段を下らずとも、青々とした海につながっていることが分かった。そういえばこの喫茶店は、海の近くに建っていたのだった。
何度も前のめりに転びそうになりながらも石段を下っていくと、靴がざりざりとしたものを踏みしめた。砂だ。次第に力を加えると抵抗する、もこもことした質感になっていく。振り返ってみる。彼と私の歩幅の違う足跡が連なっていた。なぜこんな靴が汚れるだけの場所に私を引っ張って来たのか、私には分からなかった。
白い波が、砂をさらっていく。強い風が、髪を梳く。春の海は、青々としていて冷たそうだ。そんなことを考えていると、彼の歩みが止まった。彼が振り向く。その顔には笑みは浮かんでおらず、見慣れた仏頂面だけがあった。
彼は何も言わず、私の額に掛かった髪を顔の脇に撫で付けるだけだった。
私は気になっていることを聞いた。
「なんでここにいるって分かったんですか?」
「お前のWIRE履歴を見た」
そうだと思った。私のことを知りたがる彼ならやると思った。
「仕事が早く終わったのも嘘ですか?」
「それは嘘じゃない」
口ではいくらでも言える。信用はしていない。具合が悪いと言って早めに仕事を切り上げたのかもしれない。
「なんでよりによって男の人が苦手な彩声の前に姿を現したんですか?」
彼は少し黙ってから言った。
「…あの女、お前に惚れてるだろ」
メビウスでも時折見た、苦虫を噛み潰したような顔。
「だから、分からせてやったんだ。お前が、俺の所有物だと」
もう。嫉妬深い人なんだから。呆れた。そんなことしなくても、私は貴方のものなのに。
「お前こそなんだ、これは」
右手首を掴まれ、彼の顔の前に持っていかれる。
「いつも俺とペアの指輪をしている右手の薬指に、あの女からもらった指輪を着けやがって。そうやってあの女が喜ぶことを無意識にしてるから惚れられるんだ」
ご立腹の彼は私の右手の薬指から彩声の指輪を抜き取る。
「こんなもの…」
彩声の指輪を憎らしそうに見つめたあと、彼は大きく海に向かって振りかぶった。
駄目。
突然のことで言葉が出ないまま、彼の体に飛びつくようにして腕を押さえた。耳元で風がひゅう、と鳴く。
私なんて振りほどいてもいいはずなのに、彼はそうしなかった。ゆっくりと腕を下ろして深い溜め息を吐く。その顔は不快な感情に塗れていた。
「なぜ止める?物に執着しないのはお前も同じだろ」
私とお揃いの指輪を肌身離さず身に着けているのは一体どこの誰なんですか?その質問は飲み込んだ。
「それともなんだ?身の安全が心配だからこの指輪を捨てないのか?俺といれば安全なのに」
彼は嫉妬するあまり無意識にらしくないことを言っていることに気付いていない。なんだか吹き出しそうになった。
「…そうだ。いいことを思いついた」
少し黙り込んでいた彼が、悪戯を企む子どものような顔でこちらに手を伸ばす。
「指輪。持ってきてるだろ。出せ」
指輪?何をするつもりだろう。
私はバッグを開け、中からケースに入った指輪を取り出す。ケースから指輪を取り出し、彼に渡す。ケースはバッグにしまった。
「右手の薬指なんてあの女にやる。別にいい」
彼は私の右手を取ると、海に投げ捨てようとしていた彩声の指輪を嵌めた。
彼らしくないな。負けを認めるなんて。そう思っていると、彼は私の左手を取った。
「俺はこっちの指にするから」
反対の指に、ぴったりと指輪が嵌まる。
左手の薬指。その一点を見つめる。
…変な感じがする。…じゃなくて。
「あの女に『幸せにする』なんて啖呵も切ったしな」
「永至さん、これって…」
「結婚するぞ」
頭を殴られたかのような衝撃。
彼はあっさりと私にプロポーズした。まさか、友人と喫茶店でお茶したあとに恋人にプロポーズされるなんて。予想外だ。彼にはいつも振り回されてばかりいる。
「本気なんですか」
「残念ながら、本気だ」
何もかもに本気で取り組んだことのないような彼が、私の目を見て本気だ、と言う。なんだか夢の中にいる気分だった。
「私、中身のないような人間ですよ」
足元がふわふわした気分の中、私は言う。
「こんな私でいいんですか」
「お前がいいんだ」
彼は私のシャツの襟を片手で引っ張り上げ、顔を近付けてきた。砂から踵が浮く。先程と同じく、彼の睫毛も、唇も、輪郭が曖昧になった。
「俺がお前の中身になってやるよ」
キスもプロポーズも、拒否権なんてない。
半開きになった唇に、噛みつくようなキスをされる。
こんな私だけど、これからもよろしくお願いしますね。心の中でそう呟いて、私は目を閉じる。
さざ波の音が、ただ鼓膜をくすぐるのだった。