2人から3人へ

2021.12.31



「帰ったぞ」
遠くに声を投げかけるように言うと、リビングのドアが開き、エプロンを身に付けた奴がパタパタと足音を立てて俺を出迎えた。
「お帰りなさい」
結婚してからも変わらないいつも通りのルーティーンだ。俺は奴に鞄を渡すと、土間に靴を揃えて置く。その瞬間、何気なく肩越しに奴の顔を盗み見る。

「…」
奴の様子がいつもと違う。普段なら飯にするか風呂にするか聞いてくるはずだが、その口は一文字に結ばれている。それに、長い睫毛は静かに伏せられ、俺の目を見ようとしない。
何か隠しているような。はたまた何かを決意しているような。そんな様子だ。
奴は踵を返すとまっすぐクローゼットのある部屋に向かった。廊下の曲がり角に奴が消えるのを見ていると、鞄と一緒にジャケットも渡すのを忘れているのに気付いた。だが、俺はそんなことよりも奴のことが気掛かりだった。

リビングに足を踏み入れると、リビングのドアを睨み付け、ネクタイも解かないままその場に立っていた。
奴がリビングに向かって歩いてくる気配を感じた。リビングのドアをくぐった瞬間、奴が目を見開いて顔を強ばらせたのが分かった。すぐにその視線は伏せられ、奴は後ろ手でドアを閉めた。
「ど、どうしたんですか…そんな怖い顔して」
「どうもこうもないだろ」
奴の胸ぐらを掴んで俺の方に引き寄せる。その間も奴は目を合わせないままだった。
「何か隠してるな?」
「…ばれちゃいましたか」
奴はあっさりと白状し、困ったように笑った。
「気掛かりだからさっさと言え」
「…」
全く。お前が頑なに語ろうとしないお前の身の上の話を無理矢理聞き出さないだけでも感謝してほしいくらいだ。そう思いながら奴の出方を待っていると、奴がゆっくりと口を開いた。

「私…実は少し前から体調が悪くて。夜中も起きてトイレで吐いたりしてたんです」
未だ目を合わせようとしない奴の唇が、隠し事を告白するのを見つめていた。
…知らなかった。よく同じ屋根の下で暮らす俺から隠し通していたものだ。いや、俺が奴のことを知ろうとしなかっただけだろうか。
「食欲もあまりないし、生理も来なくて。それで…今日産婦人科に行ったんです。そしたら」
…まさか。心のどこかで、もしもこいつと長く共に過ごせないとしたら、ということを考えた。一人は慣れている。だが、こいつがいない人生か。味気ないものになりそうだ。
俺らしくないことを考えていると、奴がやっと俺の目を見た。奴が右手で腹を押さえる。目を細め、口角を上げ、嬉しそうな顔をしながら。

「…お腹に赤ちゃんがいる…って…」

…赤ちゃんだと?
ガキか。俺たちの。
「…く、くくく…ははははは…」
奴の胸ぐらを掴むのを止め、手で目元を覆って声を出して笑った。久しぶりに腹が引き攣れた感じがするくらい笑った。せり上がってきた涙を指先で拭い、はあ、と息が混じった声を絞り出した。
「…そんなに面白いですか?」
面白い。こんなに面白いことはない。こいつといると本当に、退屈しない。てっきり病気の類いだと思って一人で生きるビジョンを固めていたのが馬鹿らしい。
「避妊止めてからすぐ孕むなんて、本当に犬みたいだな」
「なっ…」
奴の瞳が、眉が、口元が、怒りと恥ずかしさにぐにゃりと歪む。あのくそったれな世界ではそこまで変化しなかった奴の表情が、今はこうして俺の前で四季のような変化を見せている。それだけで心が満たされる。
「俺がしこたま仕込んでやったかいがあった。そうだろ?」
「もう!嬉しいとかそういう言葉は…!」
奴が顔を歪め、耳まで真っ赤に染めながらポカポカと軽く俺の胸を叩く。しかし、すぐにいつもの涼しい顔立ちに戻ってぼそっと呟いた。
「…貴方らしくないか」

「そうか…俺の…俺たちの…」
俺は何を思ったのか、フローリングに片膝をつき、奴の腰を引き寄せて下腹部に耳を当てた。どくどくという力強い心臓の音と、くるるる、というイルカが鳴いているかのような胃腸の音しか聞こえなかった。
「っ…ふふふ」
鈴が転がるような声が耳の中に響く。耳を離して奴の顔を見上げると、奴は愉快そうに口元を押さえて笑っていた。
「まだ2ヶ月なんですから、お腹蹴ったりとかはまだですよ。気が早いんですから」
奴が俺の頭をそっと撫でる。悪くない。
それにしても、俺はなぜこんな浮かれた真似をしたのだろうか。自分でも分からない。
「赤ちゃん、まだ12ミリくらいらしいですよ。ちっちゃいですよね」
「12ミリ…」
左手の人差し指と親指で輪を作ってみる。
「それ30ミリくらいありません?このくらいですよ」
俺が作った輪の隣に、白く華奢な手が作った輪が並ぶ。それを見ながら人差し指と親指の距離を調節した。
まだこんなに小さいのか。
「そうか…俺たちの…」
寝惚けたように繰り返しながら立ち上がると、奴が俺の両手を握り締めた。あたたかい手だ。奴を見下ろすと、真剣な目をした幼い顔が俺を見上げていた。

「貴方に伝えなくちゃならないことがあるんです」
ああ、とも何だ、とも言えずに、奴の目を見つめた。
「貴方は自分で気付いていないかもしれない。でも、認めてもらわなくちゃいけない。貴方は、共感性や倫理観が欠けていて、社会との齟齬が生まれがちになる…そんな人なんです」
共感性や倫理観が欠けている。社会との齟齬が生まれがちになる。面と向かってそう言われても、俺は怒らなかった。今まで生きてきて、それを強く自覚してきた場面が幾度となくあったから。
「私たちが子どもを産むということは、その気質が子どもに遺伝する可能性がある、ということなんです」
遺伝。そんなこと考えたこともなかった。
「だからこの子が生まれたら、貴方に少し手伝いをしてほしいんです」
「手伝い…」
俺は完璧超人だというのに、こういうときに全く頭が働かない。俺は奴に助けを求めた。
「…俺は何をすればいい?」
「簡単です」
奴は即答した。『私に頼れ』と言わんばかりの、自信のある笑みを浮かべて。
「この子が貴方と同じように振る舞っているかどうか、私と一緒に見極めてほしいんです」
「こいつが俺と同じだって分かったら?」
「貴方は一回刑務所に入って、悪いことは損だって分かりましたよね」
「…ああ」
弁護士という社会的地位や信用を利用して他人を支配し、自尊心や欲望を満たすのはいけなかった。犯罪にまで手を出したら損だということが理解できた。
「IT企業の社長になって、人の役に立つことは意外と悪くないって分かりましたよね」
「ああ」
社員や取引先の人間など駒でしかないが、俺が立ち上げた会社が役に立っていると実感する瞬間は悪くない。
「だから、私たちは『悪いことは損』『人の役に立つことは得』ということを学ばせてあげるんです」
…驚いた。目の前の女は、俺のような人間の考えていることをよく分かっている。さすが、俺が選んだだけのことはある。
「…じゃあ俺は、こいつが損なことをしたら本気で怒って、人の役に立つことをしたらちゃんと褒めてやればいいんだな」
「そうです!」
他人のために本気で怒って、ちゃんと褒めてやるなんて馬鹿らしいと思ったが、奴は俺が考えて言ったことを肯定してくれる。
「そうすれば、普通の人とは少し違うけど、結果的に得をして幸せな人生を送れるはずです」

ここは屋内で、外もすっかり夜だというのに、奴の背後から光が差しているような錯覚に襲われる。天国などないと分かっているのに、奴は天から俺の元に遣わされた存在なのではないかと…そう思ってしまった。
思えば、出会いから今まで、俺を陰で支えていたのはこいつだった。どんな人間よりも俺を深く理解していたのはこいつだった。

完璧超人の男と聡い女の遺伝子を受け継いだ人間。俺のような気質の人間だったとしても、その人生に期待が高まる。
さあ、すくすく育て。早く産まれてこい。俺が、俺たちがお前を幸せにしてやる。安心して人生を楽しむんだな。俺みたいに上手くやるんだぞ。

「…それだけ!貴方に伝えたいことは以上です!」
奴がパッと手を離し、体の両脇で手を広げて微笑んでみせた。
「ご飯にしましょう。あ、先シャワー浴びます?」
俺の言葉を待つ奴の体を、腹の中の小さな命と共に抱き締める。
「律。お前に出会えて本当に良かった」
愛だの幸せだのはよく分からないが、俺はただ、こいつと出会えたことを感謝したい。
「私もですよ」
体を離すと、俺たちはふっと笑い、どちらからともなくキスを交わすのだった。



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