あくび

2022.02.02



夕食を終え、家事も片付け、後はお風呂が沸くまで待つだけ。私は今日も、IT企業の社長として忙しなく働く彼とのひとときを過ごしていた。

ニュースを読み上げるアナウンサーの声を聞き流しながら、隣に座る彼の様子をチラリと盗み見る。右腕はソファの背もたれに沿わせるように投げ出され、私の体を包囲している。左手にはスマートフォンが握られ、その指は何やらゆっくりと画面スクロールしたり、忙しくフリック入力を繰り返したりしている。ネットに何か書き込んでいるのか、はたまた誰かと連絡でも取り合っているのか。私はただの彼の犬だから、彼に付き従うだけ。彼が何をしているかなんてどうでもよくて、深入りする気もなかった。彼の横顔には、いつもの仏頂面が浮かんでいる。常に人懐っこい笑みを浮かべていたあの好青年と同一人物だとは思えない。でも、ニュースなんて見ているより、こっちを見ていた方が面白いかも。

突然、その整った顔が僅かに歪んだかと思うと、彼は大きく口を開け、鋭く息を吸い込んだ。あくびをしたのだ。疲れてるのね。そう思ったその瞬間、私も大きく口を開け、緩く息を吐き出す。
「ふぁあ…」
ゆったりとした眠気に襲われ、目を擦っていると、彼が急に口を開いた。
「おい」
彼の方に目をやると、彼はまっすぐに私を見ていた。私を物としか思っていない冷たい目。

「真似するな」
一瞬ポカンとする。決して真似したわけじゃないのに。耐えきれずに私がふふふ、と笑うと、彼は怪訝そうな顔をする。
「何がおかしい」
「…っ、ごめんなさい」一旦謝って言葉を続ける。「真似してるわけじゃないんですよ。勝手にうつるんです」
「うつる?あくびがか?」
彼は仏頂面を少しも変化させないまま言う。
他人に興味がないから覚えていないだけで、あくびがうつったことはあるはず。
「まあ、見ててください」
私は彼の顔を見たまま、舌を下げ、喉を大きく開く。するとあっという間にあくびが出た。くぁ、と小さな声が出る。

…彼は不思議そうに瞬きをする。いつまで経ってもあくびをする気配は見受けられない。
「…なんともないんだが」
驚いた。あくびがうつらない人なんているんだ…。彼と住むようになって長いが、これは初めての発見だった。
「うつるはずなんですがね…っ…」
…普通の人は。彼は自分を極めて普通だと思っているから、その言葉は飲み込んだ。
彼に欠けているものの中に、共感性がある。だから、この結果になるのは無理もないかもしれない。
「お前はなんでもうつるのか?」
「なんでもってわけじゃないですけど、あくびは結構うつりますね。映像で見ただけでも…」

その言葉が終わらないうちに、彼はスマートフォンを置いて、私の顎を指先で持ち上げた。無言のままでいる彼を見つめていると、彼の顔が近付いてきて、顔の輪郭が曖昧になる。
ちゅ、と音がして、小鳥が木の実を啄むように、唇にキスを落とされる。目を閉じることさえ忘れた私から顔を離した彼は、口角を釣り上げて言う。

「あれ…うつらないな」

その言葉の意味を理解した私は、軽く溜め息を吐く。そのまま彼の顔を両手で挟み、目を閉じ、ちゅ、とキスを返した。目を開けて彼から顔を離すと、彼は満足げに言った。
「はは、うつった」
「…今のはうつったわけじゃないんですよ。私が仕方なくやっただけで…」
「ふぅん」
「真剣に聴いてないでしょ」
すると、お風呂が沸いたことを知らせる音が響いた。
「…じゃあ、私お風呂入ってきますから」
「ああ」

準備していた下着やタオルを持ってバスルームに向かう途中、指先で唇をなぞった。
久しぶりに彼に触れられて、本当は少し嬉しかった。



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