看病SS(未完結)

2022.04.14



肩に遠慮なく預けられた重みを感じ、流し見していたくだらないテレビ番組から左隣に目をやる。普段見下ろしている小さなつむじ。近くで見ると幾分か大きく見える。飼い犬にするように、そのサラサラとした栗色の髪を抄くように撫でてやった。
だが、奴は何の反応も示さない。いつもなら俺と目を合わせるのに。
そういえば、髪に覆われた頭皮がいつもより温かいような。テレビの音の合間に荒い息遣いが聞こえるような。
手を伸ばし、奴の額に触れる。
…熱い。
自分の手が冷たく感じるほどに、熱い。
「おい。お前、熱が…」
頭をぐらりと揺らしながら、奴が体を起こす。
「…え…?」
その目は瞼が重たげに重なり、半分ほどしか開いていなかった。
ソファから立ち上がって棚に向かう。体温計なんて久しく使っていないが、すぐに見つけることができた。
とさ、という音を聞き振り返ると、奴がソファに倒れ込んでいた。奴に歩み寄り、体温計を渡す。
「ん」
「あっ…ありがとうございます…」
奴は体温計を受け取ると、緩慢な動作で脇に挟む。しばらくすると、体温計が聞いたことのない類いの電子音を発した。体温計を取り出して液晶を見たまま固まっている奴の手からそれを奪い取る。
「…40℃」
驚いた。40℃なんて、初めて見たかもしれない。俺がガキの頃に出した知恵熱も、確かこれよりは軽かった。
「本当ですね…熱あったんだ…」
自分の体調の良し悪しもよく分からない女に苛立ち、舌打ちをする。
「お前…早く言えよ…」
もう午後だ。こいつがもっと早く具合の悪さを訴えていれば…。
だが、今日が休みだったのは不幸中の幸いだった。机に置いてあったスマートフォンを手に取り、病院を調べる。欲しい情報はすぐ手に入った。
「病院に行くぞ。俺が送っていくから」
「えっ…寝てれば治りますよ」
「馬鹿。長引いたら面倒だから薬飲んで早く治すんだよ」
車の鍵を取りにいく前に、棚を漁る。未開封の冷却シートの箱が出てきた。フィルムを剥がし、冷却シートの両端を持つ。
「ほら。デコ出せ」
奴はソファに寝転がったまま、顔にかかった前髪を額の脇に撫で付けた。
形のいい額に、冷却シートをぺたりと貼り付ける。
「ひゃ〜っ」
奴があまりの冷たさに顔をくしゃりと歪ませるものだから、思わず鼻で笑った。
「じゃあ行くぞ」
車の鍵を取ってリビングのドアを開ける。
「まっ、待ってください…」
振り向くと、ソファから立ち上がってバッグを持ってきたはいいものの、ふらふらとおぼつかない足取りで歩く奴がいた。
転んで診療箇所が増えると面倒なので、腕を掴んで支えてやる。こうして俺と奴は家を後にしたのだった。

「ただいま戻りました…」
いかなる病気ももらいたくないという理由で病院の駐車場の車の中で待っていると、奴が帰ってきた。
「どうだった?」
「検査の結果、感染症とかではなくて、ただの風邪みたいです」
…呆れた。
「どうせ腹出して寝てたんだろ」
「出してないですよ!」
「…風邪ならまあいい。感染症だったら仕事に支障が出るところだった」
車のエンジンをかけ、ナビを表示させる。
「ついでに寄り道して買い物してくるから車の中で待ってろ」
「は、はい」
車をゆっくりと動かしながら助手席に座る奴の横顔を見ていると、なんだかアイスが食べたくなってきた。こいつの分も買ってやるか。
買い物を終えて帰宅した。
リビングの照明を点けると、シンクやリビング全体に奴がやりかけの家事がぽつぽつと残っている様子が見てとれた。まだ見てはいないが、風呂場や洗面所もそうなのだろう。
気怠げな様子でソファに座り込む奴を尻目に、寝室に向かい、棚から冬用のパジャマと薄いインナーを取り出した。すぐにリビングに戻って、奴にパジャマとインナーを投げつける。
「おい病人。着替えろ」
「は、はい…でもまだやることが」
「治ったらやれ。これくらい俺がやるから」
「分かりました…」
服を脱ぎ、下着姿になった奴がその上にインナーを着ようとする。
「おい。後で体拭くとき拭きづらいからブラ外せ」
「か…体!?」
ただでさえ赤い奴の顔がさらに朱を帯びる。この反応は新鮮だった。
「なんだよ。することしてるくせに処女みたいな反応しやがって」
「い、いいですよ、自分で拭きますから…!」
「命令、って言ったらどうする?」
「…分かりました」
奴は諦めたように溜め息を吐くと、ブラジャーを外してインナーを着て、パジャマのボタンを閉めた。
「家事片付けたら行くから、寝室に行ってろ」
リビングのドアを開けてやる。いつもだったら俺はここまでしない。
「…はい」
奴は頷くと、おぼつかない足取りで寝室に続く廊下に消えていった。

リビングのドアを閉めると、さっそく家事に取りかかる。
シンクの洗い物を片付ける。
リビングに掃除機をかける。
バスタブやタイルの掃除をする。
奴が遠慮なく脱ぎ散らかした服と下着を拾い集めて、溜まった洗濯物と併せて洗濯機にかけ、干す。
不思議と、面倒だとは感じなかった。奴に出会って同棲を始めるまでは、全て自分一人で担っていたから。
ふと、奴に出会わなかったら俺はどんな生活をしていただろうと考える。物心ついたときから女は勝手に寄ってきていたが、誰も俺の内面を知ろうとしなかった。奴らの多くは、自然と離れていった。今のところ、俺のことを理解しているのは奴だけだ。自分のことは何も語らないが、毎日俺を迎え、俺の話を聞き、俺の望むことをする奴がいなかったら、今の俺はいなかったかもしれない。
今、俺が奴のために行動しているのも、愛なんてくだらないものから来ているわけじゃない。奴は俺の物だ。全ては、所有物のメンテナンスのためにしている。それは、奴に新しい指輪を贈ることになっても変わらないだろう。
…いつにしようか。
家事をする手を止め、右手の薬指に嵌めた指輪を見つめる。
どこかの輩に奴を盗られるかもしれないと思い、今にも熱にうなされている奴の手を取って言葉を紡ぎたくなる。駄目だ。まだ仕事の慌ただしさが落ち着いていない。今はそれは置いておこう。
人間らしい感情にうんざりしながら、家事を再開した。

家事を片付けたあと、寝室に向かう。
ドアを開けて奴の様子を伺う。奴は背を向け、大きなベッドの上で布団に包まっていた。寝室に入り、後ろ手でドアを閉める。奴に歩み寄ると、静かな室内にぺたぺたという俺の足音が目立つ。奴の左隣まで来ると、その顔を覗き込んだ。
奴は眠っていた。だが、いつもよりかは苦しげな顔をしている。高熱が出ているのだから当たり前だ。悪夢でも見ているのだろうか。
…起こす必要はないか。
踵を返してドアに向かって歩き出そうとしたとき、ベッド脇に置いてあったゴミ箱に足が当たった。コトンと音を立ててゴミ箱が倒れ、バサバサという音と共に中のゴミが飛び出した。床を汚すようなゴミが入っていなくてよかった。面倒だが溜め息を吐いてゴミをゴミ箱に戻していると、ベッドから布団が擦れる音がした。
「…永至さん…?」
奴に名前を呼ばれて、そちらに目をやると、眠そうな瞳と視線が合った。
起きたか、と言おうとすると、急に奴の瞳がパッと開かれた。表情が一瞬で輝く。
「あっ、アイス!」
ベッド脇の小さなテーブルに置いておいた2つのアイスと2本のスプーン。それにすぐ気付くとは。本当に犬みたいだ。つい腹の底がくすぐったくなる。
「目敏いな」
「私の分も買ってきてくれたんですか?」
「勘違いするな。ついでに買っただけだ」
俺はまた嘘を吐いた。
「ほら。好きだろ、バニラアイス」
テーブルからアイスとスプーンを手に取って差し出すと、奴はすぐにむくりと起き上がった。
「ありがとうございます!」
アイスとスプーンを受け取るや否や、すぐに蓋を剥がしだした。鼻で笑いながらゴミを片付け、寝室の隅にあった椅子を持って奴の左隣に座る間に、奴はすでにアイスを食べ始めていた。
「美味しいです!」
「ふーん。よかったな」
俺も同じバニラ味のアイスの蓋を剥がし、一欠片掬って口に入れる。まろやかなバニラの味が口いっぱいに広がった。悪くない。餌に食らいつく犬みたいにアイスを食べる女を見ながら俺も同じものを食べていると、なんだか面白い。勝手に口角が吊り上がる。
「そうだ。冷却シート交換しないとな。あと、飲料水を渡しておくからちゃんとこまめに水分補給しろよ。夜は卵粥でも作るか。卵粥くらいなら食べられるよな?飯食ったら解熱剤飲んで、熱が長引かないようにしないと」
カップの中でどんどん削れていくアイスを見ながら言うと、奴がくすりと笑う声がした。顔を上げると、奴が赤い顔でふふふと笑っていた。
「何がおかしい」
「永至さん、お母さんみたい」
…お母さん。
「勘違いするな。お前のことなんて毛ほども心配じゃない。お前の面倒を見るのが仕事に響くかどうか考えてるだけだ」
こいつが母、俺が父になる日も遠い未来ではないのだろうか。全ては俺に掛かっている。仕事の慌ただしささえ落ち着けば…いや、そんなどうでもいいことを理由にしてなぜか尻込みしている今の状況から脱出できれば。

そんな考え事をしながら、やるべきことをやる。
アイスのカップと蓋、それとスプーンを片付ける。飲料水を渡し、冷却シートを交換する。洗濯物を取り込んだあと、卵粥を作って2人で食べ、解熱剤を飲ませる。
寝る準備をするのにはまだ少し早いが、俺もパジャマに着替え、蒸しタオルを数枚持って寝室に来た。
横になって雑誌を読んでいる奴に一声かける。
「おい病人。体を拭くぞ」
「えっ…本当にやるんですね」
少し赤みが収まったはずの顔がまた赤くなる。眉尻は下がり、目は細められ、口元は結ばれている。全く。処女みたいな反応しやがって。
椅子にドカっと腰掛けると、テーブルに置いた蒸しタオルを手に取る。
手始めに顔を拭く。顔に蒸しタオルを近付けると、奴はきゅっと目を閉じた。



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