七つ星の祝福

2022.05.14



「え……さん…え……さん」
遠くから聞き慣れた女の声がする。
胸元に温かい何かが載って、忙しくガクガクと動き、それに伴って俺の体も揺さぶられている。
「永至さん!永至さん!」
水の中にいるようなくぐもった音の響きが、霧が晴れるようにはっきりしてきた。
やや重い瞼をこじ開けると、すっかり見慣れた女がいた。だがその顔はいつもと違う。眉尻はぐっと下がり、瞳には不安の色が見える。何か言いたげにポカンと開いた口。白い手は、俺のシャツの胸元を皺になりそうなほど強く掴んでいる。
「あの…」
髪を後ろに掻き上げると、ベッドに肘を突き少し上半身を起こす。
「どうした」
昨夜は…いや、今日は、確か日付が変わっていた頃に帰ってきたか。
遅くに帰ってきて疲れているはずなのに、奴の手を振り払って二度寝を決め込むこともできるはずなのに、俺は奴に穏やかな声を投げかけた。普段見ない類いの表情を見ただけで、少し興味を惹かれたのだ。
「その…出たんです」
気持ちよく眠っていた俺を無理矢理揺さぶって起こしたことに対しての謝罪や挨拶すらない。普段従順な奴にとって、相当なことがあったのだろう。
「何だ、空き巣にでも入られたか」
奴は栗色の髪を揺らしてふるふると頭を振った。

「…出たんです。む…虫が…」
「…は?」
虫?

「永至さんがいるときでよかった…」
奴に早く早くと急かされ、ベッドから引っ張り出され、リビングに伸びる廊下を歩く。奴の短く細い指が、俺の手を赤子のようにしっかりと掴んでいる。その手は未だに残る眠気で体温が高い俺のそれよりも温かい気がした。
「で?どんな虫なんだ?」
「…見れば分かりますよ」
奴の手の力が強まる。それに対して特に何も思わなかったが、俺も気まぐれに手に軽く力を入れる。悪戯に俺の背中や髪を撫でる指。簡単にへし折れそうだな、と思った。

リビングのドアを開ける。電灯も点けていない室内は、朝の光の白みに包まれていた。大きな掃き出し窓を覆う白いレースのカーテンが、風で大きく揺れていた。いつも見慣れた光景の中に、虫らしきものは見当たらない。
「虫なんてどこにいるんだ?」
リビングに足を踏み入れながら辺りを見回していると、突然奴が悲鳴を上げた。

「ひっ!」
奴が即座に俺の手の中から指をサッと抜き取り、俺の体に抱きついてきた。
俺の腕も胴体もまとめてぎゅっと抱き締めている細い腕。俺の肩に掛かった髪の甘い香り。背中に押し付けられた控えめな膨らみ。
仕事が忙しく長いこと奴を抱いていなかったことを思い出す。思わず、体が反応しそうになった。
「…何だよ」
「さ、さっきはサッシのところにいたのに…!」
奴が指でテーブルを指し示す。2人でそろりそろりとそこへ近付く。

…何だこれは。
木製の淡い黄色のテーブルの上に現われた、8ミリほどの小さな点。最初はそれは調味料でも零した跡かと思ったが、それは赤く、7つの黒い紋があった。

ナナホシテントウか。

俺がテーブルに更に近付くと、奴はゆっくりと俺から離れた。
小さな足で歩くナナホシテントウの前に人差し指を差し出す。テントウムシ科の昆虫は強い物理刺激を受けると死んだふりをし、さらに関節部から強い異臭と苦味がある黄色の液体を分泌するため、刺激をしないように、そっと。すると、俺の意図を汲んだのか、ナナホシテントウは俺の人差し指の上に乗った。指先が、ちょこまかとしてくすぐったい。
ナナホシテントウの動きが止まるのを確認すると、俺は口角を上げながら奴を振り返った。奴は何が起こるか理解したようで、若干逃げ腰になっていた。

さあ。お楽しみの時間だ。

裸足でカーペットを蹴り、人差し指を顔の前に掲げたまま、奴との距離を詰める。奴は小さく声を上げてリビングの奥に逃げた。
「キャーッ!」
俺が手を上げても叫ばないほど肝が据わっている女が、今、こんなに小さい虫一匹に怯え、叫んでいる。面白い。腹がくすぐったくなり、口から勝手にハハハと笑い声が漏れる。
「こっ…来ないで!」
足がもつれて転びかけ、奴が履いていたスリッパが両方とも脱げる。裸足になり、バタバタと足を忙しく動かすせいで、カーペットに大きな皺ができ、端が捲れ上がる。
「はあっ…はあ…ゆ、許して!」
お互い軽く汗ばんだ足で廊下を走る。走った先の寝室で追い詰めたと思ったが、奴は必死な形相でベッドの上を駆け、また廊下に出て、捕獲を免れた。こんな奴は初めて見た。
だが、俺が負けるはずがない。スピードを上げ、ナナホシテントウを乗せていない方の手で奴の肩を掴む。
「キャッ!」
驚いた奴が勝手に転び、リビングのカーペットの上に倒れ込む。
「ハア…ハア…随分と粘ったじゃないか」
いい運動になった。だが、俺ももう歳だから、遅れて筋肉痛が来るかもしれない。
「はあ…はあ…も、許して…」
奴は熱い息を漏らしながら、俺の指先に止まったナナホシテントウを気にしている。
「許さない」
俺は遠慮なく奴の腹の上に乗る。服越しに奴の熱い体温と、腹部が上下する動きが伝わってくる。
「うっ…!」
ナナホシテントウを今までにないほど近くで見た奴は、顔を強ばらせ、両腕を交差させて守りの体勢に入っていた。だが、俺はその細い両手首を片手で掴み、頭の上に固定した。
「やっ…やめて…!」
俺は笑みを零しながら、守るものがなくなった奴の顔にナナホシテントウを近付ける。体の小刻みな震えが全身に伝わってくる。
「いやっ…!」
奴は耐えられないといった具合にぎゅっと目を閉じた。
まあ、このへんで許してやるか。
ナナホシテントウを乗せた手を退けてやり、皺が寄りわなわなと震えるその額にキスを落とした。
「…へっ…?」
面白いものを見せてもらった褒美だ。
驚いて目を開け、呆けた声を上げる奴の両手首の拘束を解く。
立ち上がると白いレースのカーテンを掻き分け、掃き出し窓の外へナナホシテントウを乗せた指を突き出す。すると、ナナホシテントウはその小さな翅をぱかりと開き、軽い羽音を立てながら青空を高く飛んでいった。
「…逃がしてあげたんですね」
奴の声がしてそちらに目をやると、奴は乱れたカーペットの上で座り込んでいた。
「永至さんは優しいですね」
「俺はいつも優しい」
奴はふふ、と笑うと立ち上がり、カーペットを直し始めた。
「あー…怖かった…」
情けない声に思わず、はは、と笑い声が出る。
「お前、いい歳してあんな小さい虫が怖いなんて恥ずかしいぞ。俺が今日休みじゃなかったらどうしてたんだ?」
「う…」
「まあ、トラウマ…みたいなものがあるんだろうが」

「…別に」
カーペットを直し終えた奴が、俺の隣に歩み寄ってくる。
「別にそんな、大したことじゃないですよ」
奴が、掃き出し窓の外を見ながら、淡い茶色の瞳を細めた。
「…お前って俺の心の奥にずけずけと踏み込んでくるくせに、自分のことは何一つ語ろうとしないよな。身勝手な奴だ。俺はこんなに…」
こんなにお前の全てに囚われているのに。
「こんなに?」
奴が不思議そうに首を傾げる。
「いや…なんでもない」
「…とにかく私、貴方が思っているように、そういう人間なんです。大切な人の前であっても、本当の自分を隠してしまう。時間はかかるかもしれないけど、これからゆっくり、一生かけて貴方に私のこと分かってもらいますから」
…一生かけて。
「…くっ、ははっ…何だそれは」
そんなの、まるで。
「プロポーズみたいだな」

「…永至さんのバカ」
俺を見上げた奴の目には、今にも零れそうなほどの涙が溜まっていた。
「私、ずっと待ってるんですよ」
青空の色を反射した透明な液体が、流星のように頬を流れ落ちる。
奴の涙を見ても何も感じない。心の表面がぴくりとも動かない。

だが、俺が長いこと一人の人間を待たせていたということは理解できた。

「バカバカバカっ…!永至さんのバカっ!」
顔をくしゃりと歪め、堰を切ったようにボロボロと涙を零す奴の涙を指先で拭い続ける。
「すまん」
罪悪感や後悔など微塵も湧いてこないが、形だけでも謝ろうと思った。
「なんで私から言わないと分からないんですか…!」
「完璧超人にも分からないことはあったみたいだ」
奴の背中に手を回し、温かく華奢な体を強く抱き締める。
奴はしばらく鼻を啜って黙っていたが、俺の胸を押して体を離し、涙に濡れた目を俺に向けて言った。
「ずっと一緒にいたいって思ってるの、私だけじゃないですよね」
「俺もだよ」
嘘偽りのない、本心だった。
「じゃあ、ここで言ってください」
「そりゃあ、言いたいけど…」
「分かりますよ。貴方のことだから、もっとロマンチックな場所がいいんですよね」
「うん…」
全ては、こいつに見透かされている。
「…何回でも言ってくれていいですから。貴方のプロポーズなら、何回でも受け入れますよ」
奴の隣は、今まで過ごしてきたどの場所よりも居心地がいい。
「…分かった」
俺は、こいつがいいんだ。

記念すべき一回目…か。俺は息を吸い込んだ。
「律」
普段はあまり口にしない奴の名前を呼ぶ。
「はい」
その目に、涙はもう浮かんでいない。そこにあるのは、大輪の花のような笑顔。

「俺と」

その瞬間、俺たちを祝福するかのような強い風が吹き込んだ。
白いレースのカーテンが風をはらみ、花嫁のベールのように揺れるのだった。



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