無に還るそのときまで

2020.04.12  2020.07.23



仕事を終えて家に帰ったが、奴はいつまで経っても俺を出迎えに来なかった。

奴は青みがかった暗いリビングで、太い梁にロープを掛け、首を吊っていた。命を失った器が、風もないのにぎ…ぎ…と音を立てて無様に揺れていた。

ここにはもう、奴はいなかった。
まだ腐敗するまでに至らない皮膚を切り裂いて中を覗こうと。機能を停止しつつある器官や組織を取り出して一つずつ切り開いて見ようと。体中を巡るのを止めた赤黒い血液を手で掬って凝視しようと。奴はどこにもいないのだ。
今、目の前に在るこれはただの肉塊であって、中には俺が選んだ女はいない。

奴は死んだ。死んで、無になった。
奴は、自ら無になることを選んだ。
それも、俺の許可なく、だ。

馬鹿が。気でも触れたか?どうしようもない馬鹿が。
勝手に死んでいいなんて言ってないだろうが。

脳内から溢れ出した激情が俺を煽る。奴の死体を思い切り殴りつけたくなった。駄目だ。そんなことをしても奴は何も応えない。舌打ちをして、白い壁を拳で殴った。ごっ、という鈍い音がする。痛みなど感じない。全身に鳥肌が立つほどに苛立つ。壁を何度も殴る。骨が浮き出た箇所が切れて血が滲む。鉄の匂いがした。息が浅くなる。壁に頭と両腕を突き、深く呼吸をする。次第に頭が冴えてくる。じんじんと両手の拳が痺れ、一拍遅れてピリピリとした僅かな痛みが脳に届く。

呼吸が穏やかになる。壁から身体を離して奴の死体に目をやる。白い星が散っている視界の中に、小さく華奢なシルエットが浮かび上がる。相変わらずぎ…ぎ…という錆び付いた歯車が噛み合うような不快な音が癪に障る。気を抜くと血液が沸騰してしまいそうだ。怒りは鳴りを潜めただけで、決して消えてはいない。

お前は奴ではない。奴の形を模した人形だ。
目障りな人形は、あどけない少女のような奴の顔を貼り付け、奴と同じ群青色の服を着て、ゆらゆらと揺れ動いている。
止めろ。お前がそこに存在するだけで、身体の内側を鋭い刃物で掻き回されるような禍々しい感情が湧き上がってくる。
奴の器を使って、俺を笑うな。俺を馬鹿にするな。俺をコケにするな。

奴は俺の望むままに生き、俺と同じ景色を見て、俺の傍で微笑んでいた。
お前はどうだ?そうだ。お前は腐敗して自然に還るのを待つだけの木偶の坊でしかない。
生きていた奴と死んだお前は、天と地などでは例えられないほどに違うんだよ。

怒りが頂点を突破したからか、はたまた目の前にあるものはただの肉塊だと再確認したからか、俺の頭が更に冴え、芯から冷えた。怒りで体中から吹き出した汗がジャケットの下に着ているシャツに染み、ひやりと冷たかった。

仕方ない。お前をどうにかできる人間は俺の他には誰もいない。俺がお前をそこから下ろしてやろう。酸素が行き届かなくなった脳みそで感謝するがいい。

踵を返してキッチンに向かう。キッチンに辿り着くと、シンク下の引き出しから果物ナイフを取り出す。明かりを点けずとも、どこにどんな種類のナイフがあるかは把握済みだ。奴の死体の首に掛かった細いロープであれば、これ一本で簡単に切れるだろう。

キッチンに背を向けてリビングに戻ろうとする前に、後ろを振り返った。真っ黒な闇が広がっていた。

奴が毎晩、料理をしながら俺の帰りを待っていたこと。俺が奴の料理を味見して、悪くないと伝えると、奴が大輪の花のような笑顔を見せたこと。休日には俺が奴のために料理の腕を振るったこと。料理をする俺の傍に来てまだですかと催促する奴に待てと言い、制止してやったこと。
奴と過ごした記憶が走馬灯のように蘇ってくる。

だが、この無機質な空間は、そんなもの知ったことかと言いたげに佇んでいる。
命を失った死体だけではなく、元々命を持っていない空間にさえ苛立つ。未だに熱を持つ拳を静かに握り締めた。
ぐちゃぐちゃになり始めた思考を振り払うようにキッチンを後にした。

リビングに戻ると、奴の死体が俺を出迎えた。今までのことが全て夢で、目覚めたら奴が変わらず生きている日常に戻れたなら、どんなによかっただろうか。
ロープを切るために、奴の死体に近付く。

次の瞬間、顔を見て、思わず足が止まる。
青白い顔には、涙が流れた跡があった。固く閉じられた長い睫毛の先も、透き通った涙で濡れたままだ。

俺は、これが喉を圧迫されて出た生理的な涙であることを知っていた。
それでも、奴が一人涙を流していたという事実が、ぽっかりと穴が空いたような空虚な胸の奥深くまで響いた気がした。

馬鹿が。なぜ俺に何も言わずに死んだ。なぜ、苦しみ喘いでまで一人で死ぬことを選んだ。俺がこの手で、同類としての敬意を持って殺してやるのでは駄目だったというのか。お前の死期を決めるのは他の誰でもなく、この俺ではなかったのか。

幼さを残した顔に手を伸ばし、指で目元を拭ってやる。体温が根こそぎ奪い取られるような、冷たい頬だった。

奴の死体の腰に腕を回して持ち上げる。生気のないぐったりとした重みは感じるが、あまりにも軽い。シャツから覗く俺の首と、奴の死体の頬が触れ合う。氷に身体をくっつけているようで、ひっきりなしに体温が奪われていく。寒い。肌が粟立ち、ぶるりと小さく身震いをした。
首に掛かるロープがたわんだのを確認すると、ロープに果物ナイフを当てて、動かす。最初に踏んだとおり、ロープは簡単に切れた。奴がこんな心もとないものによって命を失ったなど、にわかに信じられなかった。

腰を支え、首に残るロープの残骸を取り去ってやる。白く細い首には、赤紫色の跡がくっきりとついていた。まるで首輪のようだった。
俺は何度か、両手で首を絞めながら奴を怒鳴りつけたことがあった。その動機は今考えれば、どれも歯牙にもかけないほど、他愛もないことだった。俺が他愛もないことで怒り狂ったように、奴もきっと、他愛もないことで死んでしまったのだろう。
死人に口なし。奴が死んだ理由は、長いこと奴の傍にいた俺にさえ分からない。もし俺が今ここで、奴と同じように首を吊って死のうが、それを知ることはできない。

冷たい体を抱き締めたまま、ゆっくりとした動作で床に座り込む。黒のスカートから覗く奴の華奢な脚が、打ち捨てられたマリオネットのようにだらしなく投げ出される。膝裏と背中に手を回して抱き上げた奴の身体を、胡座を掻いた膝の上に載せた。同時に、首も腕で支える。

顔を近付けてみる。体温を感じない。息もしていない。心臓の拍動による僅かな身体の動きもない。しかし、それ以外は何も変わらない。まるで、ただ眠っているようだった。まだ生きているようだった。今朝のように、眠気の残る顔を緩ませながら、おはようございますと言って笑顔を見せるかもしれない。
奴は死んだ。余裕もなく必死に自分に言い聞かせるが、奴が死んだことを認めようとしない自分がどこかにいた。

奴は聞き分けのいい女だった。よく働き、俺の手を患わせることなどしなかった。
奴は賢い女だった。常に俺の望む言葉を口にし、俺と同じく知性に溢れた思考を持っていた。
奴は群青色が似合う美しい女だった。普段は無愛想だが、メビウスにいるときよりも微笑むことが多かった。

だが、こうして見ると、ただのか弱い小娘だ。

俺はなぜ、こんな小娘をきつく縛り付けていたのだろう。
あのクソのような世界で出会えた同類だったから?
共犯者になるという奴との口約束を信じ切っていたから?

いや、そんなものはどうだっていい。奴に強く惹き付けられ、隣に置いてもいいと思ったのは事実だったから。その事実だけでいい。
奴と、生ぬるい地獄のような道を歩みたかった。愛なんて軽々しく形容できるものではないつながりは、俺と奴の間に確かに存在した。死んで、奴はそのつながりから解き放たれた。だが俺は、未だにそれに、奴に縛られている気がする。

ふと、鈍い色の闇の中で、部屋に差し込むほんの少しの光を集め、何かが白く光っていることに気付く。奴の右手の薬指に嵌められた指輪だった。やや無骨なその指輪を嵌めた右手の上に、おもむろに自分の右手を重ねた。同じデザインがあしらわれた指輪を嵌めた大きな手は、小さく華奢な手をほとんど覆い隠してしまった。
ぐっと力を込めて、金属のように冷えた手を握る。あるときは俺の背中を撫で、またあるときは俺の手を握っていた指。もう俺のために動かないのなら、いっそ一本残さず全てへし折ってやりたくなる。だが、お前の抜け殻だけ壊しても意味がない。

目を覚ませ。
俺の名を呼べ。

そう言いかけ、口を噤む。
何をしようと無駄だ。何も変わりやしない。奴は戻って来ない。

奴の幽霊などいないにしろ、奴の死体を殴り、蹴り、叫び、喚くのは止めることにした。俺に相応しい女は、主人がどうにもならないことに縋り付くのを望んではいないだろう。それに、これは見方を変えれば、俺の唯一の理解者である奴が俺に頼らずに初めて下した決断だ。奴の考えを尊重してやろう。

お前はよく働いた。ありがたく思え。この俺が、お前を赦してやる。
だが、いつまでも傍にいると言いながら先に行くなんて、お前は悪い女だな。俺の目に狂いはなかった。

お前は自分のことを空っぽだとよく言っていたが、俺はそうは思わない。現に、俺の中はお前で溢れかえっているから。
この先一生、俺が無に還るそのときまで、お前のような女には出会えそうにない。
お前は本当に、悪い女だ。

顎を掴み、唇を開かせ、軽く触れるだけのキスをする。目を開けたまま、永久に閉ざされたままの睫毛を見つめていた。顔を離すと、俺の唇には奴が付けていた口紅が付着していた。奴がメビウスで身に付けていた、トーチジンジャーを模したループタイのような鮮やかな色。鮮血のような色。
俺以外の輩の目に触れないように奴をここに閉じ込め、奴の奥まで俺の色に染めているつもりだった。その一方で、俺自身もかなり奴の色に染まっていたようだった。

お前は死んで無になった。俺の元に死体だけを残して消えた。
だが安心しろ。お前の死体は誰の目にも触れぬように火葬してやる。お前に殺してほしいと頼まれたときのために、近くの山奥にある焼却炉を探しておいたんだ。

お前を焼いて出た灰を庭に撒けば、綺麗な花が咲きそうだな。



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