家庭的な彼女

2022.05.24



「おかえり」
俺がアパートの階段を上る音を聞きつけた律が、エプロン姿でドアから顔を覗かせた。
冬の夜の空は既に真っ暗だ。だから、この俺の帰る場所から漏れ出す光と、律の顔に浮かぶ溢れんばかりの笑顔が、きらきら光るダイヤモンドみたいに輝いて見えた。俺には無縁だと思っていた、値段の付けられないようなものが、今俺の手の中にある。
…まだ、少し実感が湧かない。
「おう、ただいま」
靴を脱ぎ、俺より一回り小さな靴の傍に揃えて置いていると、律が突然口を開いた。

「智也、今晩の夕食何だと思う?」
「えっ」
思わず肩越しに律の顔を見た。律は穏やかな笑みを浮かべて立っている。
いつもこのタイミングで夕食の内容を教えてくれる律が、俺に夕食の内容を聞いてきている。こんなこと、今までで一度もなかった。
「えっ…何だろ」
もしかしたら、俺たちの記念日か?それとも誕生日?いや、記念日は夏で、俺の誕生日は春で、律の誕生日は秋だったよな。
「気になる。見てもいいか?」
料理が上手い律の作ったものなら、何でも好きだ。一体今晩は何を作ってくれたのだろう。
ワクワクを抑えきれない俺はすぐ立ち上がり、律の脇を通り過ぎ、リビングのドアを開けた。

少し離れたところにあるこたつの上には、さっぱりした色が目に楽しいサラダ、栄養がたっぷり取れそうな汁物、温かそうな白米、それと…。
「あー!まだ見ちゃだめ!」
普段口数が少ない律が、大きな声を出して俺の前に立ち、視界を遮る。…正直、驚いた。
「何でだよ」
「お楽しみだから!ほら、ご飯食べる前に早く手洗いうがいしてらっしゃい!」
「…へーい」
リビングを通って洗面所に行こうとする。
「視界に入らないようにこう、手で料理を隠しながら行ってね!約束!」
「…へいへい」
太陽の光を遮るような動作をしている律の真似をして、洗面所に行く。
洗面所の大きな鏡には、コンプレックスの塊と言っても過言ではない、俺の顔。
でも、その目元や口元は、平和ボケしているように緩んでいた。過去を気にして、現在を疎み、未来を悲観していた頃と違う。
俺は、律のおかげで前を向いて生きられてるんだ。

手洗いとうがいを終え、視界に入る料理を手で遮りながら、リビングに戻ってきた。
「あー律?もう手退けていいか?」
「いいよぉ」
既にこたつに入っている律の声はもごもごとくぐもっていた。
もう食ってんのかよ…。まあ、律も仕事頑張って腹減ってるだろうしな。
律の許しを得て、そっと手を退ける。
サラダ、汁物、白米、俺が洗面所に行った後に律が持ってきたであろう紙パックの野菜ジュース、それに…。

目に飛び込んでくる、にんじんの鮮やかなオレンジ色とじゃがいもの優しい黄金色。その間から見える、玉ねぎと白滝。そして、俺の大好物の、肉。

それは、肉じゃがだった。

「驚いた?」
「お…おう…もしかして、俺がWIREで言ったこと、覚えててくれたのか?」
「ほら、冷めないうちに食べなよ」
律は質問には答えず、口をもごもごと動かすだけだった。
俺は暖かいこたつに足を滑り込ませ、律と色違いの箸を持って両手を合わせた。
「い、いただきます」
いい匂いが鼻をくすぐる。何の料理から食べるかは決まっていたが、何の具材から食べるか迷う。とりあえず、肉じゃがの皿からじゃがいもを取って口に運んだ。
…美味い。
ほくほくとした食感が口いっぱいに広がる。じゃがいもをおかずに白米を食べるなんて。どっちも炭水化物だろ。そう思っていたことを撤回したくなるくらい、ご飯が進む。
次は、肉を口に運ぶ。
美味い。
素朴で力強い味が染みていて、肉の美味さが増している。肉にうるさい誰かに食わせたい。でもその反面、俺以外の誰にも食わせたくないような気持ちもある。とにかくこれ、毎日でも食える。

律の美味い手料理を食べながら、思い出す。

俺は律…謎の楽士Lucidを俺と同じく顔にコンプレックスを持つ男だと思っていた。だが、ある日、楽士の控え室で熱を出して倒れていたLucidの肩を抱いたとき、俺はその顔を見て知ってしまったのだ。
Lucidの正体は、帰宅部を率いる少女、式島律だと。

帰宅部、中でも部長と呼ばれる少女は強く、俺たち楽士を、メビウスを脅かす存在だと知っていた。
だが、俺はなぜか、律をメビウスの俺の家に連れて行き、一日潰して看病してしまった。
目が覚めた律は、敵に怯えるでもなく、味方に気軽に話しかけるでもなく、涙を浮かべながら一人の『俺』に全てを語ってくれた。

現実では周りの人と馴染めなくて、自分を受け入れてくれる仲間が欲しかったこと。だから、部長として帰宅部を率いる一方で、謎の楽士Lucidとなって忙しく活動していたこと。

そして、楽士…その中でも俺と心を開いて話しているうちに、俺に惹かれていったということ。

『私、イケPが好きなの…』

驚いた。俺を好きだと言ってくれる女性ひとがいるなんて。
どうせ現実の俺の顔を見たら幻滅して、潮が引くように離れていくんだろ。前の俺だったら、心の中でそう思っていた。
でも、目の前にいた女性ひとは違った。俺の誰にも見せられない心の奥に踏み込んで、そっと寄り添ってくれた。律とμのおかげで、今度こそなりたい自分になれるかもしれない…そう思った。

『…ありがとよ。俺のこと、その…好きって言ってくれた女性ひとは、お前が初めてだよ』
律に感謝の気持ちを述べて、続けた。
『俺、まだお前が好きとかは分からねぇけど、お前なら俺の全部を受け入れてくれるような気がする』
律は少し驚いたような顔をしてから、頬を緩ませた。
『…うん。現実でも会おうね。私、現実のイケPに会いたい。約束だよ』
差し出された細い小指に、俺は迷いなく自分の小指を絡めた。

現実に帰ってしばらくした頃、律からWIREが来て、俺たちはシーパライソで待ち合わせすることになった。
精いっぱいのコーディネートをしたが、唯一この顔面に絶対的な不安があった。でも、サングラスやマスクで顔を隠すと律に失礼だと思い、それらは身に付けなかった。
『おーい!』
メビウスで聞いたのと全く変わらない声がして、喉奥からうっという声が漏れた。
そちらを見ると、手を振りながら律が駆けてきた。
うわ、という声が出た。
短い栗色の髪。幼さを残した顔。華奢な体。少し大人びてはいるが、メビウスの姿と瓜二つな容姿。
…なんてかわいいんだ。
俺となんて絶対に釣り合わない。畜生。そう思いながら、拳を作って顔を隠した。
『イケP?イケPだよね。雰囲気で分かった』
『お、おう…こっちでは初めましてだな…』
俺と20センチ近い身長差がある律が、曖昧な薄い色の瞳をきらきらさせながら俺の顔を覗き込んでくる。
ついに痺れを切らした律が、俺の手首を掴んで拳を退かした。
『ひっ!』
自分でも情けなく思う声が出た。いつもと同じ角度のキメ顔をすることすら忘れていた。
ダメだ。やっぱり嫌われる。こんな顔じゃ…。

『いいじゃん』

『…へっ』

『イケPの顔、私は好きだよ。むしろ、もっと好きになっちゃった』

好き。マジか。
俺の顔を見て幻滅しない女性ひとと出会えるなんて。俺はなんて幸せ者なんだ。
仮想世界と現実世界両方で想いを表されて、俺の胸は高鳴った。息が苦しい。顔が熱くなる。

『私の好きな顔、嫌いって言われると悲しいな。ゆっくりでいいから、自分のこと、愛してあげて』

その優しい言葉が俺のハートにとどめを刺した。
ああ、好きだ。好きだ、相棒、律。
そうだな。お前が好きでいてくれる俺のこと、大切にしなきゃな。

その日は律とシーパライソでデートをしたが、なんだか上の空だった。

それからしばらくして、俺たちは晴れて恋人同士になったわけだが…。

「智也」
名前を呼ばれてハッとする。顔を上げると、箸を置いてこたつに頬杖をついて俺の方を見ている恋人がいた。
「どうしたの、ずっと同じお肉ばっかり噛んで。味なくなっちゃうよ」
確かに、もう口に入れた肉の味がなくなっている。すぐにごくりと飲み込んだ。
「んぐ…ごめん、考え事してたわ」
「変な智也」
律はふふふと笑う。

「…ベタに肉じゃがとかが最高なんだっけ?」
律がからかうように目を細めて言う。

やっぱり俺がWIREで言ったこと、覚えててくれたんじゃねぇか。
愛おしさで顔が、心臓が、全身が温かくなる。

「…そうだよ!…最高!」
恋人の笑い声を聞きながら、恋人の料理を次々と口に運んでいく。

律から今晩の夕食の内容を聞かれたときは、てっきり今日は何かの記念日かと思ったが。

俺にとっては、律がいる毎日全てが大切な記念日だ。



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