梅雨の日

2022.06.20



6月。窓の外は相変わらず、雨。
数日前、メディアが地方の梅雨入りを発表した。それ以降、いつ、どこに行っても鼠色の雨雲が私の頭上に浮かんでは、透き通った温い粒を降らす。
小さいが居心地のいいアパートに帰ってきたとき。それが私が唯一安らげる時間だった。だが、夏に向けて本格的に湿度の高い暑さが高まってくる、室内に干した洗濯物がなかなか乾かない、それに…女性が苦手なはずの恋人が妙に私に構ってくる、など、私は家の中でも追い詰められているような気がしてくる。

「ははは、柴犬の尻尾みてぇ」
メビウスにいた頃より伸び、後ろで結べるようになった私の髪を、笙悟が指先で弾く。じゃれついている、という方が正しいのかもしれない。
当たり前だが、髪の一本一本に神経は通ってない。だからそんなに気になるわけではないのだが、頭皮に髪の動きがダイレクトに伝わってくる。それに、そちらに目を向けなくても視界に入ってくるのは、本当に柴犬と触れ合っているかのようにふにゃっと緩んだ恋人の顔。
布団を取り去ったこたつの天板。その上にレシートと家計簿を広げているのに、外の雨音とムシムシした室温だけでなく、妙に親しげな恋人のせいで思考が遮られ、手が止まってしまう。
「ちょっと!」
「はっ、はひっ」
我慢できなくて、声を上げた。こたつの脚を挟んで斜め隣に座る笙悟が、情けなく悲鳴を上げる。
家計簿から笙悟の顔に視線を移す。申し訳なさそうに八の字に歪められた眉。円らな瞳。きゅっと結ばれた口元。まさに、やりすぎたという顔だ。
「…職場の女性ひとにもそんなことしてるの?」
笙悟が職場の女性と親しくなったから、女性への苦手意識が薄まったのでは?
恋人の私だけではなくて、他の女性にもこんなことをしているのでは?
恋人に触れられて本当は嬉しい反面、私の心の中には、今空に広がっているかのような暗雲が立ち込めていた。

「え、お前だけだよ」
しかし、その唇は躊躇いもなく私への愛を言葉にした。

「職場の女性社員と関わるのにまだ慣れねぇし、他の女性ひとにこんなことできねぇよ。お前の傍にいるときが一番落ち着く。お前なしの人生なんて考えられねぇ」
メビウスにいたときは両想いになっても軽く手が触れただけで顔を真っ赤にして謝っていた笙悟が、私への想いをまっすぐに伝えてくれている。
「もう…ずるいんだから」
消え入りそうな声で呟く。頬や耳が焼き切れそうなくらい熱かった。

「いや、あの…こんなにジメジメしてるのに髪サラサラでいいなって思ってよ。つい触りすぎた。すまん」
笙悟は、湿気でややうねった髪を後ろに掻き上げる。いつもは隠れている右目が私を捉えるが、またすぐに髪が垂れ下がって隠れてしまった。
「いいよ。許す」
私は自分の前髪を留めていた髪留めを外した。片手で笙悟の髪を押さえながら、もう片方の手でぱちっと髪留めを付ける。
「うん。かわいいよ、笙悟」
子どもっぽいリボンのデザインをあしらった髪留めを付けたかわいらしい恋人は、不思議そうに髪留めを触ったあと、両の目のしっかりとした視線を私に向けた。
「お前こそ、誰にでも好意向けてる節があるよな」
「そうかな」

「俺だけじゃないと、困る」

その言葉に、愛おしさで胸の奥が震える。
言われなくても、私は笙悟だけを愛してるよ。
「大丈夫。笙悟は特別だからさ」
「お、おう…ありがとよ…」

笙悟はリクライニングチェアに座っているかのようにゆっくりとカーペットの上に倒れると、大きな両手で顔を覆って私に背を向けた。
「ああ…幸せすぎてこえぇ…」
髪の隙間から覗く形のいい耳は、初夏の夕焼けのように赤くなっていた。
…いつもの笙悟だ。
私は嬉しくなって、同じようにカーペットに倒れ込んで笙悟に抱きつく。笙悟がア、という高く小さな叫びを上げた。
「幸せになっていいんだよ」
「そ、そうかな……そうだな。俺、棗と一凜のためにも幸せにならないとだよな」
笙悟はごろりと体を回転させると、私を抱き締め返した。
「一緒に幸せになろう、律」
なにそれ。プロポーズみたい。でも、笙悟とならいいかな。
体を離し、顔を見合わせると、私たちは額をくっつけて笑い合った。

気付けば陰鬱な雨は止み、部屋には白い光が差していた。



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