父親の助言

2022.06.30



「恵利。お前、最近学校のこと話さないな」
「え」
夕食後の、束の間の時間。テーブルに肘を突いてボーッとテレビを眺めている一人娘に言葉を投げかけると、恵利は驚いたように声を上げた。
「まあ…そんなもの、毛ほども興味がないから、どうでもいいが」
くだらないバラエティー番組の音声を聞き流しながら、新聞を広げて目を通す。

「…いじめられてるから」
斜め左隣にいる娘の小さな声は、まっすぐに俺の耳に入ってきた。
「…は?」
思わず新聞から顔を上げる。
恵利は俺と同じココアブラウンの髪を肩口で揺らしながら、テーブルの上で組んだ両手を見つめた。
「いじめられてるの。私」

アイランドキッチンから聞こえていた水を流す音と皿がぶつかる音が一瞬止んだが、再び聞こえ始めた。奴が聞き耳を立てたのだろう。だが、奴は恵利の傍に来なかった。
「いじめられてる、だと?お前の妄想じゃないよな?」
「妄想じゃないよ。本当」
「具体的には?」
「物隠されたり、陰口叩かれたり、無視されたり。他にも色々」
「なんでお前がターゲットなんだ」
「中学校に入学してすぐ仲良くなった子たちがいるんだけど、その子たち、私が勉強も運動もできるって知って嫉妬してきて。こんなことになるなんて思ってなかった」
…全く。どういうつもりだ。
恵利がいじめが原因で不登校にでもなったりしたら、俺の人生の汚点になるだろうが。俺の『取り巻き』の一人は、父親である俺に相応しい完璧な人生を歩まなければならない。これは絶対だ。
学校側に報告するか、PTAを通して恵利をいじめた奴らの親を追い詰めるか。頼れる親だと思われて、手軽に承認欲求が満たされる…意外といいかもしれない。だが、馬鹿は死ななきゃ治らない。一度俺たちに関わってきた奴らは、再び障壁になることもあるだろう。いっそ殺して山に埋めようか。

「お父さん」
恵利が、俺を呼ぶ。思考が暴力的に明晰になってくるたびにだんだんと下がってきた視線を恵利に向けると、恵利は今にも泣きそうな顔で俺を見ていた。子犬のような表情の変化を見せる形のいい眉と曖昧な色の瞳が、特に奴に似ている。

「お父さん。私…悔しい…」

悔しい。
いじめられて、悔しい…か。 俺のような気質を持って生まれてきたとしても、幼少期に繰り返し教えることでその気質の発現を抑制できると奴が言っていた。だから、愛をはじめとする様々なものが欠けている俺なりに、何か悪いことをしたら怒り、人の役に立つことをしたら褒め、できるだけ手を掛けてきたつもりだが…悔しい。その言葉が、少し引っかかる。

友人だと思っていた人間たちに裏切られ、体に沿わせた拳を震わせる恵利の姿を思い浮かべる。その姿は、悲しみを感じている…ように見える。 だが、それは実際には、悲しさではなく悔しさだったと。

意識して、脳の共感スイッチを入れてみる。
俺も、信じていた人間に裏切られたら悔しいと思う。自分は、簡単に自分を裏切るような人間を選んだのか。そう思い、肥大した自尊心に傷が付く。
信じていたのに。俺が父親を階段から突き落として殺したときも、そう思ったのを覚えている。
恵利の普段の様子は至って普通の人間と変わらないが、もしかしたら努力の甲斐虚しく、俺と同じ気質が発現し始めたのかもしれない。

…もしそうであれば話は早い。
他人の同情を引くために涙を流せ。物を奪われたら奪い返せ。癪に触ったら思うままに殴れ。気に食わない奴はそいつに対して悪い噂を流し孤立させろ。
ー仕返ししろ。
そう言いかけて口を噤む。

奴が、皿洗いをしながらこちらを見ていた。動く時は私も誘ってください。あのクソったれな世界でそう言っていた奴のことを思い出す。今、そちらに視線を向けようとは思わないが、嫌でも視界に入る。
分かった。父親として、助言すればいいんだな。それも、反社会的ではない内容の。

新聞をテーブルにもたせ、恵利の組まれた両手に手を重ねた。
「恵利」
恵利が、微かに毛先を揺らす。
「自信を持て。堂々とした態度を崩すな。人一倍努力しろ。ベストな結果を出せ。そうすれば、奴らはお前を蔑ろにしたことを後悔するはずだ」
嘘でも見栄でもない。俺はこうして生きてきたから。
一呼吸置いて、言う。
「見返してやれ」

恵利は口を小さくポカンと開けて呆気にとられている様子だったが、すぐに顔全体を緩ませて両目を細めて微笑んだ。
「私、仕返しのことばっかり考えてた…見返すことなんて考えてなかった」
俺は無言のまま、テーブルにもたせた新聞を手に取り、バサッと広げる。
「こうしちゃいられない!私、もっと勉強する。あいつら見返してやるんだ!」
恵利が、勢いよく立ち上がる。椅子だけでなく、机もガガッと音を立ててずれた。
バタバタと喧しい足音を立ててリビングから出ていこうとする恵利が、ドアノブを握ったままこちらを振り返って言った。
「お父さん。…ありがとう」

バタンとドアが閉まり、ドタドタと階段を駆け上がる音が響く。それと同時にアイランドキッチンから聞こえていた音が止んだ。しばらくすると、小さな足音が近付いてきて、華奢な両腕が俺の首に回された。柑橘系の食器用洗剤の匂いがする。
「ふふふ。よくできました、永至さん」
耳元で、やや深みを増した奴の声がする。
「…何様のつもりだ、お前」
「貴方のことだから、絶対仕返しのこと考えてるだろうなって思ったのに。凄いですよ」
「最初は仕返しのこと考えたよ。でも、お前が父親としての資質を問うような視線を向けてくるから、仕方なく」
「あはは。よく分かってるじゃないですか」
奴の手が、ぽん、ぽんと子どもを寝かしつけるように動く。

「貴方と恵利に出会えて、私…幸せ」
言葉と裏腹に解かれていく細い腕を、思わず掴む。
「ずっと一緒にいましょうね」
そこには大輪の笑顔が咲く顔があった。
上手く言葉が出てこない俺は、返事の代わりに奴の腕を引っ張り、その唇を奪うのだった。



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