愛おしい人たち

2022.07.02



まだ歯も生えていない小さな口が、一心不乱に私の乳首を吸っている。片手で支えている細い髪に覆われたその頭は、とても小さい。何かの拍子にぐにゃりと潰れてしまうのではないかと、つい彼みたいなことを考えてしまう。まだこの世界のことをよく知らない円い瞳は、私の顔を見上げるでもなく、空間の一点を見つめている。彼も時々そうなって、身動き一つしなくなるなあ…そんなことを考える。

恵利のことと同じくらい、彼のことが私の思考を覆い尽くし始めた頃、掃き出し窓とレースのカーテンが開いて、彼がベランダからリビングに足を踏み入れた。その手には、ライターと煙草の箱。
「…永至さんって、優しいですよね」
「ふん。当たり前だろ。完璧超人は妻と子どもへの気遣いも完璧でなきゃな」
彼が私に背を向けたまま、掃き出し窓の鍵を閉め、レースのカーテンの端を引き合わせた。
彼がいつもベランダで煙草を吸う理由。それは、私と恵利の体に悪影響を与えるのを防ぐため…ではないということを、私は知っている。室内に煙草の匂いが染み付くのが嫌だから…とか、そんなところだろう。彼には、愛情や思いやりなんてものはないから。
すると彼は、クッションを敷いて座り込んで授乳をしている私の傍に歩み寄り、胡座をかいて座った。
ー私の胸も、それに吸い付く恵利も、穴が空くほど見られてる。いつもなら興味なさげにテレビを見たり新聞に目を通したりしているのに、どうして。彼がたまに言う気まずいという言葉の意味を、身を以て理解した。
どうしたんですか、と言おうとすると、彼は突然口を開いた。

「恵利」

両手の親指でゆっくりと気管を圧迫していくかのような、どこか甘い声だった。同時に彼が人差し指を差し出すと、恵利はぷにぷにとした手でそれをきゅ、と掴んだ。彼が、ふっと鼻で笑う。
「いい飲みっぷりだな。こいつとはいい酒が飲めそうだ」
「ま、まだまだ先は長いですね…」
なぜか、声が掠れた。

「…それよりさ」
彼は、恵利が自分の指を離すまでしばらく待ってから切り出した。
「お前、妊娠出産したら急に胸でかくなったよな。まあ、貧乳が普通サイズになっただけだけど」
神妙な口調で何を言うのかと思ったら、胸の話か。全く。男って生き物は…。
「確かにそうですね。下着も買い替えましたけど…」
「触らせろよ」
多少食い気味に言われて、つい笑いそうになるのを堪える。
「お金貰いますよ」
彼を楽しませようか。そう思って半笑いで冗談を言うと、彼が驚いたような顔を見せた。
すると彼が急に立ち上がり、リビングから出ていった。しばらくすると彼が戻ってきた…が、その手には、権力を見せつけるかのようなゴツゴツした大きな財布があった。彼がまた、私の隣で胡座をかく。
彼は真剣なのかもしれないから笑ってはいけないとは思うが、思わず笑ってしまう。
「ちょっ!冗談…」

しゅっ、と音を立てて、彼が真顔で、財布から万札を引き出す。
「です…って…」
それも、1枚や2枚どころじゃない。束だ。厚みは1センチといったところだろうか。ざっと見て、100万円はある。
呆気にとられている間に、空いている手の中にぐいっと札束をねじ込まれる。…受け取ってしまった。いや、今なら間に合うかもしれない。
「こ、こんなに受け取れないです」
「なんだよ。俺の稼ぎでやりくりしてる癖に」
札束を持っている手を彼の方に伸ばしても、彼は受け取ろうとしない。
「それにこれは、単にお前の胸を触るための費用じゃない。死なずに出産を乗り越えた褒美だよ」
…そうか。これは、彼なりの『いい子だ』なんだ。
「出産頑張ったで賞、ってことですか」
「そうとってもらって構わない」
「じゃあ今日これからショッピングに行きたいな、いいですか。この子のお洋服と、食材を買いに行きたいんです」
「は?自分にだけ使えよ」
お前のためにやったのに、と続ける彼は、不機嫌そうに眉根に皺を寄せた。
「結構余っちゃうけど、余った分は貯金しておいてまた別の機会に使いますから。それこそ、自分のために」
「…徹底的に他人のために尽くす意味が分からない。いや、お前は俺の伴侶なんだから、俺に尽くすのは当たり前だと思ってるんだが」
「分からないままでいいですよ。それが、貴方なんですから」
「…うん」
彼のいつもの空虚な瞳が、なんだか少し不服そうに見えた…ような気がした。

「お金貰っちゃったから、その…触っていいですよ」
「……分かった」
非日常を求める彼のことだから、乳房を捻り上げるように乱暴に触って、私が痛がる様子と噴き出る母乳を面白がって見るのだと思っていたが、実際は違った。
恵利が吸っていないもう一方の乳房の上に、4本の指をそっと押し付けるようにしたまま、微動だにしない。まるで脂肪の層、骨の檻の奥にある心臓の動きを感じ取っているようだった。
「貴方のことだから、もっとこう…揉みしだいてくるのかと思ってました」
「そんなことしないよ。ああ、でもお前の両の乳首に根性焼きして、授乳のたびに痛がるようにしたら面白そうだな」
「残念でした。その時は哺乳瓶でミルクあげるので貴方の思い通りにはいきませんよ。…もしかして、私が恵利に必要以上に構うのが気に入らないんですか?」
「……」
彼は無言で指先の力を強めた。

「…薄々勘付いてるだろうが、俺、お前も恵利も、単なる物としか思わないんだ。車やアクセサリーなんかと同じ。だが、お前からあらゆる感情を向けられてないと、その…退屈で苛々する」
「恵利ばっかり構うと寂しい…ってことですよね」
「寂しい…って言えばいいのか、この気持ちは」
てっきり怒られると思ったけど、彼は意外な反応を示した。
「家族が増えたが、変わらずいつも、俺に尽くせよ」
「そのつもりですよ。私の大事な永至さん」
自分が望む言葉を私から引き出した彼は、満足そうにくつくつと喉を鳴らし、私の乳房から指を離した。

「じゃあ、行くか。ショッピング」
「ですね。ちょうど授乳も終わりましたし」
とりあえず彼から貰ったお金を置いて、清浄綿を手に取り、乳首と恵利の口を綺麗に拭き取る。服の乱れを直すと、恵利の小さな体を私の肩にもたせかけるようにして抱き、背中をとんとんと優しく叩く。すると、けぷ、と音がして、恵利が母乳と一緒に飲み込んだ空気が出てきた。
「げっぷできて偉いね、恵利」
また頭を支え、汚れた口の周りを拭いてあげる。
「俺も褒め称えろ」
「ふふ。はいはい。永至さんは偉いですね。いつも図太く生きてて」
「殴るぞ」
「お金、どうしよう。数万円持っていけばいいかな」
寝室にある金庫にお金を入れてこようと腰を浮かすと、彼が私の肩を制した。

「邪魔だろ。持つよ」
一瞬何が邪魔で、何を持つのかと考え思考が停止したが、紛れもなく恵利のことだと気付いてぷっと吹き出してしまった。
「そ、そんな、バッグみたいな」
彼には妻の私も娘の恵利も、バッグをはじめとする物と変わらないとは十分理解しているけど、なんだか面白い。彼が言うように、私も彼といると、退屈しない。そう思う。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼の前にクッションを引き寄せ、その上に恵利を寝かせると、彼は石のように固まった。
「…どうすればいい」
完璧超人でも分からないことがあるのね。かわいい。
「抱っこするね、って言ってあげてください」
「は?ふざけてんのか」
「びっくりさせないためですよ。ほら、抱っこするね、って」
「……抱っこするね」
心の籠もらない機械のような声に、つい口角が上がる。
恵利も、急にお父さんに声をかけられて、きょとんとしているけど、これから何かが始まることは理解できているみたい。
「恵利の後頭部に両手を差し入れて」
彼が、得体の知れない物を触るように、怖ず怖ずと恵利の後頭部に両手を差し入れる。
「永至さん、利き手どっちでしたっけ」
「左」
「右手で恵利の頭と首を支えて、左手で背中とお尻を支えるんです」
「こうか」
両手をそれぞれの場所に沿わせるようにする。
「そう。それから、胸に体重を預けるように…口と鼻が胸に埋もれないように気を付けて」
恵利の体の体重を一身に受けた彼は、吐き捨てるように呟いた。
「…重っ」
「あー。レディにそんなこと言っちゃだめですよ」
「重いものは重い。今までこんなの持ってたのかお前」
「貴方の体の大きさが遺伝したんじゃないんですか?」
「そうか…で?」
「右手をお尻までスライドさせて、腕全体で恵利の体を支えて。頭と首も、肘の内側で支える感じで」
彼は、まるで機械のレバーを操作するようにタスクをこなす。
「左手は背中からお尻あたりに添えて。これで完成です」
「ふーん。これが…」
当たり前だが、初めて娘を腕に抱いても能面のような彼の表情は変わらない。
「…泣きませんね」
「父親の腕に抱かれて泣くわけないだろ」
ちょっと私にも分けてほしいくらい、彼の自信は過剰だ。
「あはは、そうですね」
「早く金しまって出掛ける準備してこい」
「はーい」
私は立ち上がり、リビングを出て寝室に向かった。

数万円を財布に、残りのお金を寝室の金庫に入れて出掛ける準備を終えた私は、リビングに戻ってきた。
「お待たせしまし…た…」
目の前には、じっと我が子を見つめる夫と、あうあうと声を上げながらその顔に小さな手を伸ばす娘。
彼らに思わず目を奪われた。
時に暴力性を宿す大きな手が、まるでダヴィンチが描いた両手のように情に溢れているかのように見えてしまった。
「ああ、準備終わったか。じゃあ行くか。あ、車の鍵取ってくれ」
「は、はい」
フックに引っ掛けられた車の鍵を手に取り、その場でボーッと立っていると、いつの間にか夫と娘がすぐ傍にいた。
「律」
返事さえできずに彼を見上げる。
「お前には感謝してる。俺と結婚して、俺の子どもを産んで、俺の社会的地位を確立させてくれたんだからな」
…普通の夫婦とはちょっと違うけど、私たちはお互いに唯一無二の価値を感じて一緒にいる。毎日が、愛おしさでいっぱいだ。
「貴方こそ。私を選んでくれて、ありがとうございます」
ゆっくりと彼の顔が降りてくる。私は彼の手と恵利の体にそっと触れると、背伸びをして唇を重ねた。



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