Cherry

2022.07.23



「見てください永至さん!佐藤錦!赤~っ!」
「うん……」
俺より20センチ以上背の低い小さな恋人は、殊更機嫌がいい。IT企業の社長として忙しなく働く俺との時間を楽しみにしていたからか。はたまた、酒が入っているからか。正直俺らしくないが、前者だと信じたい。俺は、こいつの大事な恋人だから。だが、机の上の空の缶が、紛れもなく後者だという事実を俺に伝えてくる。全く、苛々する。
「私、佐藤錦大好きなんですよ!…ん~!甘くて美味しい!」
「……そうか」
しこたま食って飲んだのに、奴はハイペースでサクランボをパクパクと頬張っている。夕食が盛り付けられていた空の食器は、果肉が付いた種と茎で満たされている。飲み食いしたものがこんな細い体のどこに行くのか、解剖して見てみたいくらいだ。

「永至さん……」
並んで座り、身長差を縮めた奴が、俺の肩に頭を預け、ほぼ息で構成された言の葉を吐き出す。発泡酒の嫌に甘い香りが鼻をつく。
特に興味はないが奴の方に顔を向けると、奴と目が合った。

「…好き」

全身がぞわりとした。鳥肌が立ちそうで、立たない摩訶不思議な感覚。ただの2つの文字なのに。俺にとって、『コーヒーが飲みたい』と同じような意味しか持たないものなのに。その言葉が俺の心の表面にさざ波を立てる。だが、その奥は冷たいままだった。もし俺が、こんな些細なことで心の奥まで震えて熱くなるようなおめでたい人間だったら、どうなっていただろうか。いや。俺は、このままでいい。他人の感情。痛み。愛。そんなものに振り回されるなんて御免だ。

今も、こいつに手綱ごと引っ張り回されているのに。

奴が俺の肩にもたれるのを止め、皿の上のサクランボを手に取る。茎の枝分かれした部分を摘まみ、上下に揺すると、赤い実同士が振り子のようにぶつかり合う。
「私たち、サクランボみたいにつながってるから、離れられないんですよ」
確かそんな曲があったな。音楽としてのレベルも著しく低くて、歌詞も馬鹿がうつりそうな内容で、すぐに聴くのを止めたが。
待てよ。その曲が世に出たときこいつは生まれて……いるな。仮に話題にしたら、こいつはちゃんとついてくるだろうか。『ごめんなさい。よく分からないです』。そう言われたら10歳以上の年の差を感じてどこか頭が痛くなるだろうから、俺はあえて話題に挙げない。
「…永至さんも、そう思いません?」
「馬鹿らしい。お前ってそんな惚気たこと言う女だったか?」
「いいじゃないですかぁ~!変なところで頭固っ!」
「お前な……」
色んな意味で、調子が狂う。俺も、いっそ酔ってしまおうか。
酒を煽る。アルコール度数の高い液体が喉を流れ落ち、胃を満たす。まるでゲップをするように、本心を吐き捨てた。
「別に、お前がそう思っているならそれでいい。ただし、俺はいざとなったら茎を切り離して、お前を残して逃げるからな」
奴からの返事はない。俺も、それに対してなんとも思わない。この変に甘ったるい話は、もう終わりだ。

刹那、白い手が伸びてきて俺の頬を滑る。油断していた俺は、簡単に顔の向きを変えられてしまった。

そこには、感情の読めない能面のような顔。鏡を見ているかのように、目が離せなかった。
俺の薄い唇に、性急にサクランボの実が押し付けられる。赤い実が唇の間にめり込んだ。
「口」
「は」
「口、開けて」
他の輩より秀で、俺より劣る。そんな、消去法で選んでやった犬如きが、俺に気安く口をきいている。
つけあがるなよクソアマ。その頬を張って分からせてやろうと思った。
「早く」
だが、俺はしなかった。俺に楯突くようなこいつの姿は、あまり見られないものなのかもしれないと思ったからだ。
面白い。受け入れてやろう。俺はゆっくりと口を開けた。
舌の上の襞を、舐めるようにサクランボの実が進んでいく。奴がゆっくりと瞬く。瞼がぴたりと閉じるその直前まで、じっと目を合わせたまま。
「閉じて」
従順に唇を閉じる。微かに開いた歯列の間から、サクランボの茎が突き出ている。
単に、俺にサクランボを食わせたかっただけか。妙な真似しやがって。さっさと口の中のサクランボの実を噛み潰そうとした、とき。

奴が、動いた。
奴は、茎でつながったもう片方のサクランボの実を、自分の唇にそっと押し当てた。目を閉じ、ちゅ、ちゅと音を立ててサクランボの実にキスの雨を降らす。
脳にアルコールが回り始めた。いつも明晰な思考が鈍ってくる。
……こいつと、キスが、したい。
この実なんて食べずに吐き出して、その唇を奪いたい。いや、こいつに、奪ってほしい。
なんでこんなこと考えてるんだ、俺は。
女々しい思考を振り払おうとしていると、奴が目を開け、俺と目を合わせる。奴に惚れてなどいないのに、その曖昧な色に見惚れた。
そのまま、奴は見せつけるようにして小さな舌を出し、ひた、と赤い実にくっつけた。
目を逸らしたいのに、できない。舌のつぶつぶしたハイライトと、実のすべすべしたハイライトの対比が鮮烈で目眩がした。
奴の舌が、蛇のようにうねり出し、実の表面を這った。
既に俺の鼻から漏れる息は、喘ぐようで。全身から何かが噴きこぼれそうだった。いつの間にか掻いていた汗が背中を伝う。
奴が、弄んでいた実をゆっくりと小さな口に含んだ。待ち侘びていた瞬間に、俺は叫びそうになった。焦らされて、焦らされて、ついに体をつなげたような…俺にそんな経験はないが、そう表現するしかなかった。
サクランボの実を支える必要がなくなった奴が、俺に向かっておもむろに手を伸ばす。耳から首筋までを爪先でスッと撫で下ろされ、喉奥からくぐもった声が漏れた。瑞々しい皮に包まれたサクランボの実。その下で、舌が震える。奴に触れられただけで、気持ちがいい。
奴が、実を口だけでぐっと引っ張る。茎でつながった俺の口の中の実が、それに伴って手綱のように引っ張られる。それだけで、甘く絶頂しているかのような感覚に陥る。
飢えた獣のように、多量の唾液が分泌される。体が熱い。
俺が、女に攻められている?こんなの、初めてだ。もう、果ててしまいそうだ。
小さく体を震わせている俺を見て、奴はふふ、と声を漏らした。

ぶち。
ついに奴は、何かを契るようにサクランボの実を食い千切った。
俺の舌の上では、V字型の茎がつながった赤い実が、生首のようにごろりと転がった。
果てた直後の女のように、俺はどこかぐったりしていた。
静かなリビングに実が咀嚼される音が響き、奴はサイドの髪を手で押さえ付けながら種と茎の海に種を一つ吐き出した。
そして奴は、俺の胸を指で突いて囁く。

「永至さんこそ、ある日突然私に茎を切り離されて呆気にとられないでくださいね」

「……ああ」
感嘆のような声が出た。
俺は、こいつと同じく…いや、それ以上にこいつと離れられないのだ。
こいつに飽きられるまで、ずっと。

俺は熱情を押し殺すように、中の種まで砕く勢いで、サクランボの実を噛み潰した。
それは、毒のように、死のように甘かった。



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