モーニングコール

2022.07.24



出張2日目の朝。
俺は電話のデフォルト着信音を聴いて目を覚ました。
裸の足でシーツと羽毛布団を巻き込みながら、上半身を起こす。膝立ちでサイドテーブルに近付き、規則的に震えるスマートフォンを手に取った。
黒い画面には、恋人の名前。
……律からだった。
奴から電話が掛かってくるのは当然のことだ。出張に出掛ける前に、奴に毎朝モーニングコールをするよう言ったのだから。
目を覚ますというタスクを完了した俺は、すぐさま着信をぶつ切りした。
サイドテーブルに置いた腕時計を見る。針は、奴に伝えた時間ぴったりを指している。上出来だ。
明日は、少しだけ…少しだけ、俺の声を聴かせてやろうか。朝の白い光に包まれたホテルの一室で、ふとそう思った。
ベッドから降り、朝の支度に取りかかろうとしたとき、手元のスマートフォンから電話とは違う着信音が鳴った。奴から、WIREが来ていた。
『永至さん、おはようございます 今日も一日、体に気を付けて頑張ってくださいね』
文の最後には、オレンジ色の太陽の絵文字が付いていた。
俺は無心のまま、同じ絵文字だけのWIREを送った。すぐ既読が付き、新着メッセージが更新される。
『えっ!?久しぶりにWIRE返してもらえた!?』
しばらくその文を眺めたあと、俺はWIREを閉じ、朝の支度に取りかかった。

出張2日目の夜。
ホテルに帰ってきて、すぐベッドに倒れ込んだ。
……疲れた。
他人への思いやりや気遣いで疲れないのは、意外と気に入っている。だが、代わりに、普通の人間のフリをするのが疲れる。どこかでボロが出ているかもしれない。いや、そうだとしてもそれ自体はなんとも思わないが、ボロが出ることで地位や名誉を失うことだけはなんとしてでも避けたい。俺は最も優れた人間だから。
スマートフォンを手に取り、連絡先一覧をスクロールしていく。
あ行、か行、さ行、た行、な行…。どいつもこいつも、上辺だけ関係のやつばかりだ。利用価値すらも薄いと感じる。
は行。『母』。俺を産み出した女…なのに、俺を全く理解しようとしない女。階段から突き落として殺したあの男と同じだ。結局この世界は、俺か、俺以外か…それしかないのだ。
ま行、や行…。
ら行。そこには、『律』の一文字。ただクソったれな世界で出会って、いつの間にか俺の恋人になっている女。
俺がもし地位や名誉を失ったとして、奴は俺の傍に居続けてくれるだろうか?いや、俺が全てを失うことなんてありえない。そんなこと、絶対に起こりはしない。
……それでも、空虚な心を満たす、寂しさ…のようなもの。
俺の筋張った人差し指は、奴に電話を掛けようとしていた。すると、急に着信音が鳴り響き、画面が黒く染まり、奴の名前が白く浮かび上がった。
指先が液晶に掠ったか…?いや、違う。ちょうど、奴が俺に電話を掛けてきたのだ。
無言で電話に出る。
『……あっ…えっ?嘘、電話にまで出てくれた…!』
奴のクリアな声が、鼓膜を震わせる。
『永至さん、こんばんは。今日も一日お疲れ様でした。すみません、急に電話しちゃって』
どこか、気が抜ける。マイクに音が入らないように、ゆっくり、鼻から息を吐き出した。
『永至さんは、明日出張から帰ってくるんですよね』
「は?」
反射的に声が出た。
『わ!喋った』
「明後日なんだが」
『え』
しばしの間、沈黙が流れる。
『…間違えちゃった!』
「馬鹿だな」
『早とちりしちゃいました。だって……寂しかったから』
……俺もこいつも、同じ気持ち。奴の存在が、ぐっと近付いてくるようで、奴に頭の中を覗き込まれているようで、全身がぞわりとした。
すぐに電話を切った。スマートフォンを持ったまま、息を吐き、天井を見つめる。
気まずい?違う。気持ちに相違が生じて、それを不快に感じているわけじゃない。
怖い?違う。俺は恐怖を感じたことなど一度もない。
安心?
認めたくないが、そうなのかもしれない。

目を閉じたまま、左手で奴の存在を探る。奴を抱き締めて二度寝したい気分だった。それなのに、その細い肩に辿り着く気配はない。そう。まるで、手が空を切っているような……。

出張3日目の朝。
俺はベッドの外に腕を伸ばし、手をヒラヒラ動かした状態で目覚めた。大きな溜め息を吐く。
家にいるつもりで、寝惚けて奴を探すなんて。俺史上最悪の目覚めだ。
当たり前に何も知らない奴から電話がかかってくる。すぐに出た。
『早っ!文字通り、おはようございますですね~』
「うん…」
『なんか気まずそうですね。私、何かしました?』
「お前のせいだぞ」
『ええー…』
「まあ、お前に見られてないからいいとしよう」
『まさか、お漏らししたとか…!?』
「30代にもなって漏らすかよ。それに、仮に俺が漏らすことになったとして、お前になんの関係もないだろ」
『私と関係あること……あっ。あ、あのう…』
「なんだ」
『も、もしかして、私のえ、エッチな夢見て、むせ…』
奴の言葉が終わらないうちに、電話を切った。切ってから気付いた。こんなタイミングで電話を切ったら、本当に夢精したと思われるのではないかと。失敗した。
奴の口から夢精という言葉が出てきたことにやや興奮を覚えたが、実は昔の男が夢精してその下着を洗ってやった経験があるのではないかとか…童貞みたいなことを考えてしまった。
スマートフォンを置き、奴のほんのり赤い顔を思い浮かべながら、朝の支度をした。

出張3日目の夜。
疲れて重い体に鞭を打ち、あとは寝るだけ…というところまで駒を進めた。ライトを点け、ベッドに寝転がり、今度は俺から奴に電話を掛けた。
『は、はい』
「…俺だ」
『こんばんは…って、貴方から電話してくれるなんて、びっくりです!何かあったんですか』
「俺は断じてお前のエロい夢を見て夢精したわけじゃない」
『ぶっ』
「ということを一番に伝えたかった」
『ふ、ふふっ…いや、なんだか声色が神妙だから何を言い出すのかと思ったら…それこそ、魔王から賢者にジョブチェンジしたみたいで』
賢者?ジョブチェンジ?
「は?何かの比喩かそれは」
『…ああ、永至さんネットスラングとか詳しくないですもんね~』
別にネットスラングなんか知らなくてもいいはずなのに、こいつにマウントを取られているようでムカつく。
「ネットスラング…掃き溜めに蔓延るクズの言葉を使うな。お前に付き合ってる俺まで穢れる」
『あはは、すみません』
『…で、それとは別の話題があるんじゃないですか?』
電話越しなのに、俺の心が見透かされている。
「なんでそう思う」
『やっぱり声色が違うし、出張以外で疲れてる感じがして…違いますか?』
そうだ。今日一日、タスクをこなしながら、このことを奴に話そうかずっと考えていた。
あのクソったれな世界よりも、深く俺に踏み込んでほしい。
俺はベッドにスピーカーモードにしたスマートフォンを置くと、静かに口を開いた。

「あのさ」
『はい』
「俺のことどう思う」
『えっ』
「正直に言え」
『…普通の人と色々違ってて面倒くさいけど、かわいい…みたいな…』
「やっぱりそうか。物心ついたころから薄々気付いてはいたが」
『自分がかわいいってことに?』
ふ、と笑ってしまった。全くこいつは。お陰で、冷たい心がわずかに弛緩したような気分になった。
「いや、そこじゃない。普通の人間と色々違ってるってことにだ」
『…永至さんは自分でも気付いてはいたんですね』
「ああ。他人の痛み・悲しみ・苦しみへの共感性のなさとか、お前を道具としか思わないところとか。自分で気付いてはいたが、なんとかしようとは考えなかった。これは、生まれついての気質で、どう足掻こうと治らないから」
奴は黙って俺の話に耳を傾けている。
「脳では自分の利益についていくらでも冷静に考えられるのに、心の奥はぴくりとも動かない。社会では、現代文の問題を解くように、他人がこうしたときはこうするのが一般回答なんだな…って考えて行動してる。正直、疲れる。お前といるときは、そんな回りくどいことしなくてもいいから、楽だ」
小さく相槌を打つ奴の声が聞こえる。
「以前、弁護士としての地位を築く裏で多額の金を横領してたこと、田所を利用して邪魔者を焼き殺したあとクラブで散財してアリバイ作りをしたこと、俺の横領を庇おうとしなかった父親を階段から突き落として殺したことをお前に話して自慢したが、本当は犯罪なんてものに手を染める必要はなかったと思う。面白いこと、利益になること、欲望が満たされること。それらが俺の前に立ちはだかると、良心や理性のブレーキが利かず、一直線に全力疾走することしか考えられない。だが、刑務所に入って懲りた。出所後、才覚を生かして起業して。お前と、気が合う恋人と生活するようになって。俺は前より社会に溶け込めていると思う」
こんなに自分のことを他人に話すのは初めてだった。受け入れてもらえるかという不安も、拒絶されたらどうしようという恐怖も、何も感じない。頭に浮かんだ俺自身のことを台本を読み上げるように言っただけだ。
スマートフォン越しに、奴が沈黙する。
何か言え。いつもみたいに、俺が望む言葉が欲しい。
すると奴が、うん、と相槌を打った。
『前より社会に溶け込めている…っていう結び、貴方らしいですね』
「普通は違うのかよ。俺は、愛してるとか信じてるとかほざくおめでたい頭にはなりたくない」

『私が普通普通って言ったから気にしちゃったかもしれませんけど、普通に囚われなくてもいいと思いますよ。人それぞれ、普通の基準は違うんですから。心が痛んで悪いことができないのが普通の人もいるし、貴方や私みたいに時に残酷なことが平気でできるのが普通の人もいる。これが自分の普通なんだって、胸張ってていいんですよ。』
……なんだこれは。
がら空きの両腕で、自分の体を抱く。心の表面が震えている気がする。もういっそ、心の奥の奥まで震わせてくれ。
「俺がもし普通になったらどうする?」
なぜこんな質問をしているのか分からない。
「俺が普通だったら、俺もお前も愛し愛されて、幸せ…に、なれたかもしれない」
愛だのなんだの、今まで気にしたことがなかったのに。

『私は今の貴方がいいです』
奴は、はっきりと言った。
『他人の感情とかに左右されずに、冷静に物事を判断できる能力。素晴らしいじゃないですか。人類の歴史は、そういう気質を持った人たちが先陣を切って切り開いてきた、と言っても過言ではないですよ』
「普通になったら、って聞いてるのに」
どこか動揺する思考を振り払うようにして、言葉を吐き出す。
『人が急に変わるなんて、無理でしょう。でも、強いて言うなら、私は貴方がどんな人だったとしても、惹かれたんじゃないでしょうか』

『私は、そういう気質を持った貴方とか、普通の貴方とかじゃなくて。琵琶坂永至という一人の人間が好きです』

アイスピックで穿たれた氷のように、俺の全てが砕かれていくような感覚に陥る。飾らない自分らしい形になった俺は、奴の広く温い海に浮かび、冷たい温度のまま少しずつ溶け出していくのだ。

「……そうかよ」
俺は言葉が見つからなくて、小さな声で呟いた。

『…ていうか、そういう大事なことは電話じゃなくて面と向かってしましょうよ!』
「今しか言える機会がないと思った」
『そ、そうですか。それなら仕方ないかな』
「満足したから、もう寝る」
『そうですね。私も、普段伝えられないこと、伝えられたかも』
「律」
『は、はい!』
「ありがとう」

困惑して無言になった奴を置き去りにして、電話を切る。
スマートフォンをサイドテーブルに置き、寝返りを打ち、目を閉じる。
明日の朝も、出張から帰ってからも、他愛もない日も、歳を重ねてからも、一日の始まりを奴の声で飾ることになりそうだ。いや、奴に拒否権はない。絶対に、そうなるだろう。
奴は、いつだってこの俺を何かに気付かせてくれる。
今はただ、奴のモーニングコールが楽しみだった。



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