重い錨

2022.09.04



「……そいつがそんなに気に入ったのか」
俺は、小さな鉢に植えられた花を撫でる女の指先を見つめながら呟いた。
「ええ」
テーブルを挟み、俺と向かい合って座る奴の桃色の唇が、形のいい弧を描く。
「そいつのどこにそこまで気に入る要素がある?」
「嫌ですか、私がこの子に取られるの」
「は」
呆れとも失望ともつかない奇妙な感覚が、声になって喉から飛び出した。
「ふふふ」
鈴が転がるような奴の笑い声を聞きながら、今まで息を忘れていたかのような、深い溜め息を吐く。

小さな錨の形をしたごく淡い紅紫色の花々。明るい緑色の葉。
それは、あのクソったれな世界で俺の胸元に咲いていた花と同じものだ。

「……なんでこんな利便性のないものを、お前に贈ってやろうと思ったのか」
俺らしくない、と小さく吐き捨てる。
すると奴は、両腕で鉢を抱き寄せるようにすると、俺を一瞥して言った。それも、どこか据わった視線で。

「『貴方を離さない』」
――その瞬間、目が離せなくなった。

「ロマンチックでいいじゃないですか」
奴は微笑むと、顔の横で両手を広げて戯けてみせた。
ロマンチック、か。田所をはじめとする邪魔者たちのことを指しているのだと思っていたが、確かに唯一の理解者であるこいつを縛り付けてしまっている今の状況にも当てはまるかもしれない。
「……聡いお前のことだから、知ってると思ってたよ」
「知ってますよ。笙悟たちの心に踏み込む手掛かりになる、重要なヒントでしたからね」
笙悟。なぜ、俺ではなくそいつの名前を一番に挙げたのか。胸の奥が不快にざわめく。
「あはは、大丈夫ですよ。意地悪言っちゃったけど、私の一番は貴方ですから」
「は、うるさいな……」
本当にうるさい。こいつは。さっさと殺してその口を閉じさせたいくらいに。

「そいつのどこにそこまで気に入る要素がある、でしたっけ」
奴はまた指先で花を弄り始めた。
「楽しいんですよ。貴方がもう一人増えたみたいで」
そうだ。いつもそうだ。こいつといると、いつも言葉にできないような気持ちになる。不快ではないし、空虚な気持ちが完全に晴れるわけでもない。だが、リスクのあることを楽しむときとは方向性が違うが、底無しの退屈が満たされていくのが分かる。
「くくっ……そうかよ」
俺は笑いながら、そう呟いた。

数日後の深夜に目を覚ました俺は、寝室を抜け出し、リビングに行き、ベランダに出た。
月明かりに照らされ、夜風に揺れる、もう一人の俺。俺は、そいつの眼前で立ち止まり、そっとしゃがんだ。奴がしていたように、指先で触れてみる。もう一人の俺は誇らしげに見えた。

「……クソッ!」
鋭く叫び、極限まで力を弱めていたその手に力を込め、ぐっと握り締める。拳がブルブルと震えた。

俺は、いつだって自分がしたことを後悔することはない。横領だって、殺しだってそうだ。だが、奴にこれを贈ったのは、とんだ間違いだと思った。

奴が、あまり俺を見なくなった。構わなくなった。俺から求めないと、俺の望む言葉を言わなくなった。まるで、現実に帰ってきて築いたものがなくなって、あのクソったれな世界にいた頃に逆戻りしたかのような錯覚を覚える。
そんなのどうだっていいはずだった。それなのに。嫌だ。いつもは麻痺したように動かない心が、世界に俺一人しかいなくなったかのような孤独……のようなものを、じわじわと感じている。こんなことは、今まで生きてきて初めてだ。
ここ最近、腕にこいつを抱いた奴の夢ばかり見る。奴を抱き締めてキスをしようとしても、胸元をちょこまかとした葉にくすぐられ、夢から覚める。
胸元に咲いていても気にも留めなかった花が、今はただただ邪魔だった。あのクソったれな世界よりも、根が深く張り巡らされて、痛みに似た感覚を呼び覚ます。
もう、激情を抑えられなかった。

これでいい。俺は間違っていない。
俺は、躊躇いも無くもう一人の俺の命を摘み取った。

朝、奴がいない寝室でいつもより早く目覚め、何事もなかったかのようにリビングに足を踏み入れると、奴の小さな背中が目に飛び込んできた。奴はなぜか、俺の定位置に腰掛け、俺に背を向けていた。
「おはよう」
返事は返ってこない。静寂が立ち込める空間に苛立ち、奴の肩を掴む。
「おい、返事くらい……」
奴は、葉と、花を失った無様な茎が生えたままの鉢を抱えていた。その傍らには、錨の形をした花々が並んでいた。
「永至さんですよね。こんなことしたの」
いつも聞いていて心地いい声が、ガサガサに掠れていた。
「楽しかったですか」
楽しかったか、だと?楽しくもなんともねぇよ。
「クソが……!いい加減こっち向けよ!」
細い肩をぐい、と強く引き寄せる。

しとどに濡れた瞳。歪んだ顔。
奴は、泣いていた。

「貴方に贈ってもらったものだから、大切に育てたかったのに……っ」
奴は顔を背け、泣き続ける。大粒の涙が頬を伝う。

理解者の涙を初めて見ても、なんとも思わない。胸の奥は冷たいままだ。
「くは、ははは……」
だが、なんだか腹の奥がくすぐったくなってきた。
「……そうだ。最初からこうすりゃよかったんだ」

奴の腕を強く掴んで立たせ、そのままずかずかと歩く。命を失った鉢が土を零す音がしたが、どうでもいい。
ソファに奴を突き飛ばす。軽い体が、ぼふ、と音を立てた。奴はまだしゃくり上げていた。
「な、に……」
もう一人の俺の死に心を奪われて、俺に見られることも忘れて、最低限見た目を整えることもしないで。無様だ。花を失った茎みたいだ。
だが、もう既に後戻りできないくらい、俺はこいつに囚われてしまっている。
これはまるで、重い錨。

「悲しいんだろ?苦しいんだろ?痛いんだろ?」

ただ抱き締めても、薄っぺらい。
ただキスをしても、何も残らない。
ただ、抱けば。抱けば、手っ取り早く塗り潰せる。面倒な感情、物事、何もかも。単に快楽を得るだけの行為は、底無しの退屈に喘ぐ俺に、生命の水を与えてくれる。

「トバしてやるよ、全部」

そう。俺は、泣いている女をどうにかする方法を、これくらいしか知らなかった。

これでいいんだ。

俺は静かに、ソファに身を沈めていった。



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