Statice
2023.06.25
――舟だ。
気が付けば俺は、舟に揺られていた。
安っぽい作りの舟が、川の水を掻き分けて行く、穏やかな音がする。
周りの風景は、木もなく、森もなく。建物もない。ただ、川、川原、濃く白い霧が広がっているだけ。
無言で舟を進ませる船頭の男。胡座をかいた俺の大きな体を押し込めるようにぎゅうぎゅうと身を寄せる同乗者ども。そいつらの顔は、もやがかかったように不鮮明だった。あのクソったれな世界を思い出して嫌気が差した。
なぜ、俺はこんなしみったれた場所にいる?
俺が望んでここに来るわけはない。最低でも、俺は豪華客船での優雅なクルーズを望むだろう。
俺は降りる。二重の意味でそう言いたいところだが、川の深さ、冷たさは未知数。俺は口を噤むしかない。
ふざけやがって。呆れて、怒る気にもならない。
……眠い。
ふと、肩を叩かれ、すぐにパチリと目を開く。
見上げると、船頭の男だった。一切身動きせず、俺にそのツラを向け続けている。何を考えているのか全く分からない。
眉間に皺を寄せながら、大きな溜め息を吐くと、舟が陸地の傍らに停まっていることに気付いた。舟には俺以外、誰もいなかった。
あばよ。
舌打ちをしながら、俺は舟から立ち上がり、陸地に足を踏み入れた。
さわ。
軽やかな草を踏み締める音。
下を向いていた俺の目に、痛いほどの新緑。
――これは?
ガキが騒ぐ声。小鳥の囀り。風が凪ぐ音がする。さっきまで、不気味な耳鳴りがするほど静かだったのに。
顔を上げる。
雲がたなびく青空。豊かな木々。頭上で輝く太陽。そこで、腰の曲がった老人から女の胸に抱かれた赤ん坊までもが、思い思いに過ごしている。
なんだここは。
もやがかかって感情が見えないはずのそいつらの顔が、思いのほか明るく見える。
まるで……全てから解放されたかのような。
舟。川。川原。
そうか。
俺は。
怖くは、なかった。
俺は恐怖など、今までに一度も感じたことはない。
俺が望んでここに来るわけはない。先程そう思ったが、訂正する。
俺は、望んでここに来た。
呑気に笑い合うヤツらを横目に、俺はいささか走るように歩き出した。
どこだ。
視界の隅に、若い女が映る。思わず振り向く。だが、違った。
顔にもやがかかっていたとしても、俺には分かる。俺だけは、分かってる。
目を細め、遠くをぐっと見据える。
息が弾むほど駆け足になり、あちこち歩き回る。目が、回りそうだ。
何人かに話しかけられた。
誰かを、探しているのかと。
紳士めいたツラを取り繕っている暇も余裕もなくて、返事の代わりにそのボケた顔を睨み付ける。
俺は、俺の意思で、ここに来た。
だから……。
目の前に、急激に、青空より深い色が広がる。
気管が、絞られるような感覚。文字通り、息が殺されるかのような感覚。
短い栗色の髪から覗く白い首。コバルトブルーのワンピースの端々に見える華奢な四肢。
忘れるわけはない。
忘れられるわけはない。
「律」
俺の声は、掠れも、揺らぎもしなかった。俺はきっと、このときを待っていたのだろう。
奴の肩がぴくりと動き、奴が体ごと振り向いた。
……あ。
……ああ。
緩く垂れた髪に神秘的な影を落とされた、幼い顔立ち。全てを見通しているかのような薄い色の瞳。
ああ。
奴だ。紛れもなく。
俺を見るなり、奴は急激に顔を強ばらせてよろめいた。
「永至さん……!?」
目元、口元がくしゃりと歪み、その目に、透明な涙が溜まっていく。
「どうして……!?どうしてここにいるんですか!?」
どうしてって。
嬉しくないのかよ。
俺が、こんなところまでわざわざ来てやったのに。
普段嘘を紡ぐ俺の唇は、軽く開いたまま動かなかった。
「私っ……!言ったじゃないですか!私の分まで生きてって……!」
烏滸がましいよ、お前。
俺の人生、どう生きようが俺の勝手だろ。
「……うるせぇ」
俺は、強く歯を食いしばった。
「俺が、お前の分まで生きなきゃいけない……そんなもんは義務じゃねぇだろ」
行き場のない苛立ちを拳に乗せ、奴の顔に叩き込もうとして、止める。
「お前がここにいるから、ここに来た。それじゃ、駄目なのかよ」
拳を解き、奴の体を抱き寄せる。
全てが、陽向みたいにあたたかい。柔い。
あのとき、止まっていた血の巡り。拍動。
もうこれが、永久に失われないと思うと、安堵してしまう。
「……っ、実はっ……実は、嬉しかった」
「うん」
「また永至さんに会えて、嬉しかったっ……!」
背中に押し当てられたか細い手。あのときみたいな、生命力を感じない、病的な細さじゃない。
「……うん」
そっと頭を撫でる。太陽の光であたたまったのか、それとも奴の体温なのか、温もりを強く感じた。
「いいんですか。ここは、これといった娯楽も……何もないところですけど」
目元を赤くした奴が、体を離して俺を見上げてくる。その頬は、だらしなく緩みきっていた。そうそう。その顔が見たかった。
「いいよ。それくらいがちょうどいい。シャバは、雑多な娯楽が多すぎたから」
「よかった」
薬指に銀が輝く、奴の左手を取る。
瞬間。
それなりの力を込めているはずなのに。
それはするりと、すり抜けた。
「……なんだこれは」
手を、握る、開く。
肌の色、輪郭が透け、足元の地面の黄土色がありありと見える。
「……永至さん」
そっか。奴が呟く。
「きっと、神様が……琵琶坂永至という人間はここで終わるべきじゃない、って言ってるんですよ。受け入れましょう」
は。
声にならない吐息が漏れた。
未だ鮮明な響きを持つ声まで、透けてしまったみたいに。
「もっと長く生きて、色んなものを見て、色んなことをして……しわしわのおじいちゃんになって。それで、もうやることないなあ、楽しかったなあって思いながら深く眠って。そしたら、またここに来てください」
さっき取り乱したのが嘘みたいに落ち着いてやがる。
お前は、それでいいのかよ。
何受け入れてんだよ。
俺は嫌だよ馬鹿が。
ここで死んだらどうなるのだろう。常闇に包まれた無になれるのか。これなら、無になった方がずっとマシだ。
俺が死ぬほど嫌で、お前が平然としているのが、本当に嫌だ。
俺の唯一の理解者ならば、俺と同じ気持ちであればよかった。それが、同類ってものだろう。
奴の唇が、俺の唇に重なる。俺は今にも消えそうで、触れているかどうかも怪しいのに、その感じ慣れた感覚だけは、しっかりと伝わってきた。
「永至さん」
奴はいつの間にか泣きながら微笑んでいた。
「永至さん。生きて」
薄暗い病室。
目を大きく見開いたままの俺。
未だ強く拍動する心臓。
腕や鼻、下半身にまでに張り巡らされたいくつもの管。
病衣が皮膚に触れている感覚。
全てが。その全てが、俺が生きていることの確固たる証拠だった。
畜生。
二つの意味で、しくじったと思った。
一つ。俺が、何者かに見つけられてしまったこと。
俺は、真夜中、胃に詰め込めるだけの大量の酒を飲んでから、海に入った。
満月が煌々と輝く暗い空と、黒い海に挟まれたまま、俺は死出の旅に出た。
朦朧とする意識。寒さでカチカチと音を立てる歯。スーツのジャケットやシャツが、水を吸って重くなる感覚。両足が、何もない水を切る感覚。
絶対に助からないと思っていたのに。
『神様』。
貴様の思し召しだとでも?
二つ。俺が、奴の夢を見てしまっていたこと。
夢の中の奴は、美しかった。
病に冒され、痩せこけた顔でただへらへらと笑っていた頃より、ずっといいと思った。
だが、駄目だ。
俺の中の、奴への想いが。
堰を切ったように溢れ出して。
俺は。
奴の隣は、今までにないほど居心地がよくて、まるで、失った自分の半身を見つけたようだった。胸元にぽっかりと空いていた虚しい穴が、埋められていくような。
起業も成功し、社会的地位も確立させ、今までの俺の、犯罪に手を染めるほどの強い渇望はなんだったのだろうと思った。
俺に舞い込んだ僥倖。これが、長く続いていくのだと思っていた。
なのに。
病の発覚。
日常を侵食していく瘴気。
痩せ細っていく顔、体。
恐怖も痛みも語らない口。
顔に掛けられた布。冷たい体温。紫色の斑点が浮き出た体の末端。白色の死に装束。三角の布。鮮やかな華の色。ふざけた声で読み上げられる念仏。線香の匂い。喪服。火葬場の煙突から立ち上る煙。小さな骨壺。写真。墓。
うんざりだった。
未だに奴の死を信じられないことも。
どうでもいい存在だったと切り捨てられないことも。
退屈で仕方がなくて、奴のところに行くことを考えたことも。
夢で奴に会えたのに、また引き離されるのかと絶望したことも。
嫌だ。
全部全部、嫌だ。
こんなに苦しいのなら、いっそ、俺と奴が進む道が交差しなければと。
手を取り共に歩むことなんて、ふざけた考えを持たなければと。
律。
俺をここまで貶め、苦しめておいて、勝手に行きやがって。
あまりにも自分勝手すぎる。
俺の嘘で塗り固められた仮面の奥に触れ、いつも寄り添うように居た女。
俺にとって、光明のような女。
俺がお前の分まで生きる。それが、お前が望む幸福なのかもしれない。でも、そんなものは知ったことか。
俺の幸福は、俺の最上の幸福は、お前と在ることだった。
お前のいないところじゃ、もう、幸福なんて見つかる気がしない。
俺は頭を抱え、意味のない言葉を呻いた。
喉がつっかえて、乾いた咳が出ても、呻き続けた。
俺の声を聞いて駆けつけた看護師や医者が見えた。
俺は、意識を手放した。
『琵琶坂家之墓』。
そう刻み込まれた墓石の傍の花立に、濃いピンクの花を供えた。淡い青色の萼をつけた、小ぶりな、可憐な花だ。
ここに来る途中で寄った花屋で、不思議と惹かれて買った。
「……この色。ピンク色が好きで、青色が似合うお前にぴったりだと思わないか?」
両手を合わせ、目を閉じる。
律。俺は、神様とやらが寄越したチャンスを……二度目の人生を、俺なりに生きることにしたよ。
もっと長く生きて、色んなものを見て、色んなことをして……しわしわの爺になって。それで、もうやることねぇな、楽しかったなって思いながら深く眠って。そしたら、またお前に会いに行く。
確かに、お前がいないこの世界は地獄だ。あのクソったれな世界や、お前に出会う前の世界なんて、比べ物にならないほどに。
お前の死を悲しいとも思わない。
お前を愛しているなんて感じない。
お前がいなかったら、俺はどんなことに手を出すか分からない。
これは、治らない。治るとしても、治す気なんてない。
それが俺だ。お前の隣にいた、俺だ。
お前が、普通とは違っていても、幸せになれると。そう教えてくれた。
俺は、くたばるまでずっとこんな調子だ。
俺の心は、変わらない。
人の懐に自然と入り込むくせに、自分のことは一切語ろうとしない。
そんな、お前のことを深く知る人間は、俺だけだ。
人々の記憶から、跡形もなく消える。それは、人間にとって、二度目の死だと俺は思う。俺が死んだら、お前は二度死ぬことになる。俺は、それは嫌だ。せめて俺は、俺だけは、絶対にお前のことを忘れやしない。嘘じゃない。約束だ。
お前も、俺のことを深く知っていただろう。
お互い、最初で、最後だ。
誰にも見せやしない。聞かせやしない。奪わせやしない。
ずっと、俺たちだけのものだ。
この記憶は、途絶えない。
目を開き、合掌を止める。
奴によく似た花を、指先で撫でる。
スターチス。
花言葉は、『変わらぬ心』、『途絶えぬ記憶』。
「また来るよ、律」
俺は、奴の墓を後にした。
「ずいぶん長生きしましたね」
「誰がどう見ても大往生だ。文句のつけどころがない」
「どんなところに行ったんですか?」
「花が綺麗な場所、海が綺麗な場所……お前が好きそうな場所ばかり選んで行ったな。どこに行くのかなんて、俺の自由なのにな」
「どんなことをしました?」
「基本的に、ずっと仕事漬けだった。あ、疑ってるな?犯罪に手を染めるなんてことは一切していない」
「しわしわの永至おじいちゃん、隣で見たかったなあ」
「ふん。俺は年を取ってからも女に言い寄られ続けたんだぞ。いいだろう。……全部断ったけど」
「やり残したことはありますか?」
「思いつかないよ」
「楽しかったですか?」
「ああ。楽しかった。お前がいればもっと楽しかったんだろうけどな」
「……また会えて嬉しいです」
「ああ]
「俺もずっと会いたかった、律」