永遠の幸福

2020.04.12



ガチャ。
大きな扉が開く重たげな金属音を聴いて、私は読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じた。
軽やかに玄関を踏みしめる靴音と扉を閉める音、そしてゆっくりと、かつ確かに施錠される音。これらを順を追って聴く。私が彼によって外の世界から隔絶されていることを改めて実感する。
まるで地獄のようだ。それも、とても生ぬるい。だが、居心地は悪くない。住めば都というのはこのことだろうか。
テーブルに文庫本を置いて椅子から立ち上がり、広いリビングを出て、彼を出迎えに行く。

玄関には、もうすっかり見慣れてしまった現実での彼の姿があった。
「お帰りなさい」
飼い犬の如く、彼の元に駆け寄りながら言った。
「ああ、帰ったぞ」
尊大な態度で胸を張りながら彼が言う。だが、彼の様子はいつもと違っていた。私のことをとやかく言えないような無愛想な顔を貼り付けているはずの彼が、子どもを見守るような慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。彼は慈しみも愛も持ち合わせていないから、そう表現するのは正しくないかもしれない。けれど、いい例えがそれしか思いつかなかったのだ。

「…どうした?俺の顔をじっと見たりなんかして」
土間に立つ彼が、大きな体を折り曲げて、私の鼻先まで顔を近付けてくる。普段私を見下ろしている彼の顔が、私の目線と同じくらいの位置にあった。睫毛の一本一本から肌のきめまでがありありと見える。作り物みたいに精巧だ。でも、静かに息をしていて、体の隅々まで血が通っていて、ちゃんとこの世に生きている。そう。倫理や共感性に欠け、良心の呵責もなく自由気ままに振る舞う彼であっても。
「いえ。どこか嬉しそうに見えるから、いいことでもあったのかなと思って…」
あまりの距離の近さに後ずさり、ガードするように小さく両手を突き出す。それを見た彼は大きな手で口元を覆い、喉を鳴らしてくくくと愉しそうに笑った。ここまで機嫌がいいと、少し身構えてしまう。一体何があったのだろう。

すると、彼はおもむろに手を伸ばし、私の鎖骨の下あたりを指でぐり、と押した。
「お前こそいいことがあったんじゃないのか?」

えっ…私?
「いいこと…ですか?」
まさかこちらが質問されるとは思っていなかった。まず私の質問に答えてほしかったのに。私はいつも、気付けば彼のペースに乗せられてしまっている。全く、魔王さながらの横暴さだ。
「ほら、今日は何の日だ?言ってみろ」
無骨な指が土に穴を掘るようにぐりぐりと動く。爪先が肋骨の間に食い込んでちょっと痛い。これは、自分の胸に訊いてみろということだろうか。
何の日、か。考えを巡らせてみる。私たちが一緒に住み始めた日でもないし、彼の誕生日でもないし…。

「あ…!私の…誕生日…」
そうだ、今日は私の誕生日だったのだ。すっかり忘れてしまっていた。

「自分の誕生日を失念するなんて、お前はやはりどこか抜けているな」
彼が指を下ろし、呆れた様子で深い溜め息を吐く。
「あはは、ごめんなさい。でも、誕生日って年を重ねるだけで、そんなにいいことだとは思いませんけど」
「馬鹿言え。この俺がわざわざお前の誕生日を覚えてやったんだ。それだけで今日という日は特別なものになると決まっている」
彼が鼻を鳴らしながら、この世の全てを牛耳っているかのように堂々と言う。

他人に苦痛を与えたことなどすぐ忘れるくせに、むしろその自覚もないくせに、こんな小娘と話した他愛もないことははっきり覚えているんだ、この人は。悪気も悪意もないままに私を信じ切って。まるでまっさらな子どもみたいだ。
愛らしい人。貴方のその全てが愛おしい。
私は、どんな形であれ、命が尽きるそのときまで、彼の傍にいたいと思う。

「ふふふっ…そうですね」
「何を笑っている?」
彼の大きな手が私の栗色の髪を梳く。声色は相変わらず優しげなままだ。
「貴方と年を重ねられるなんて、私は幸せ者ですね」
硝子玉のような光をたたえる彼の瞳を見つめながら、微笑んだ。

彼は僅かに体を硬くしたと思うと、顔を背けて下を向いた。赤茶色の髪がさらりと垂れて、彼の表情はうかがい知ることはできなかった。しかし、満足げな笑い声に合わせて大きな体が小さく揺れているのが見て取れた。

顔を上げた彼が、目を細めて微笑みながら溜め息交じりに呟く。
「俺の傍にいるだけで幸福だなんて、無欲な女だな」
後ろを向き、靴を脱いで揃えた彼は、家に上がってすぐにクローゼットのある部屋の方へ歩いていく。いつもは私が、彼から放るように預けられたジャケットと鞄をクローゼットに収納しに行くのだが。

彼は背が高く、脚が長い。それに、自信過剰で尊大な態度が手伝って、踏み出す一歩も大きい。小型犬のように小さく走り、彼との距離が開かないうちに尋ねた。
「あの、ジャケットと鞄、私がしまってきますよ?」
彼は私には目もくれず、一直線に部屋に向かう。
「いい。今日は俺がやる。お前はこれをリビングの花瓶に挿しておけ」
彼は片腕に掛けているジャケットの下に隠すように持っていた物を取り出し、私に投げて寄越した。わっ、と小さく叫びながらもなんとかそれをキャッチする。

「お前をよく知る俺にさえ、お前が欲しがりそうなものが一向に思いつかなかった」

カサ、という乾いた音を立てたのは、透明なビニール袋に包まれた一輪の青いカーネーションだった。袋の根元は、水色のギンガムチェック柄のリボンで慎ましく飾られている。
思わず、忙しく動かしていた足を止め、彼の方を見やる。
まさか、これは。

「永至さん…これって…」

すっかり遠くまで歩みを進めていた彼が、部屋のドアを開けたまま動きを止めた。小さく弱々しい私の声をしっかりと拾ってくれたようだった。
彼はこちらを振り向かず、背を向けたまま、ぶっきらぼうに言った。

「…おめでとう」

部屋のドアがバタン、と乱雑に閉められる。
しばらく呆気に取られてその場から動けなかったが、心の底から嬉しさと愛おしさが湧き上がってくるのが分かり、頬が緩んだ。

「ありがとうございます」
彼が不慣れながらも私が生まれた日を祝ってくれたことに、そして、こうして大切な人の傍で生きられることに心から感謝した。
『永遠の幸福』という花言葉を持つ青い花を、決して離さぬように胸元にそっと抱き締めながら。



BACK