Hydrangea
2023.06.25
「散歩に行くぞ」
そう俺から奴に持ち掛けた。
犬は、ちゃんと散歩に連れて行かないとな。
人通りが少ない道を、一人と一匹で歩く。俺が一歩を踏み出す間に奴は一、二歩余計に歩き、小型犬のように従順についてくる。首輪も着けていないのに。いや、首輪なら着いているか。奴の左手の薬指に、とっておきのが。
草の根を掻き分けるような、ざぁ、という静かな音が耳に心地良い。肩にもたせかけた傘の縁からぽたり、ぽたりと落ちる雫の音も性に合う。
じめじめとした生温い風を纏いながら、じっと奴を見下ろす。
濡れて額や首元に張り付く金糸。水滴を弾く白い肌。青色の下着が透けた胸元。水が染み込んでベージュがさらに濃くなったサンダル。
出掛ける前に、奴がカーディガンを羽織り、レインブーツを履こうとするのを止めた。まさにこれが見たかったからだ。
そう。俺は雨の日にわざわざ奴を連れ出したのだ。
嫌がらせのつもりだった。退屈凌ぎに、奴の嫌そうな顔が見たかった。だが、当の本人は凛とした表情を崩さない。何を考えているか、俺でさえ分かったもんじゃない。畜生。俺はお前の全てを手中に収めたいのに。
くしゅっ。
雨の中でも、その小さな音は鋭く響き、俺の思考を遮った。
「あっ、すみません」
何もしていないのに謝る。変なやつだ。
喉を鳴らして笑いながら奴の濡れた手首を掴み、小道に入っていった。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。
そこに咲く花々は、青や紫、ピンクや白などの花を密につけ、手毬状を成し、鮮やかに佇んでいる。
まるで紙の上に水を敷き、そこに水彩絵の具を複数色滲ませたかのような曖昧な色味が、目に痛いほどだった。まさに、紙の繊維に沿って顔料が染み込んだよう……そう形容するのが正しいだろうか。
「わあ、綺麗」
「いいだろう。俺が見つけたんだ、この場所」
お前の方がよっぽど……そう言いかけて、やめた。貴方らしくないですね、琵琶坂先輩。そうどやされそうだと思ったからだ。
「あれ」
俺を差し置いて先を歩いていた奴が足を止める。
「これ、なんか変じゃないですか」
奴の細い人差し指から水滴が落ち、紫陽花の葉の上の水滴と、つるりと一つになる。
その指が指し示す方を見る。
一塊に咲く、ピンク色の紫陽花。その中で、端の方の花々だけ、後から染めたようなわざとらしい青色だった。
確かに、奇妙だ。
「確か、土壌のpHによって花の色が変わるんでしたよね」
「よく知ってるな。そうだ。一般に、アルカリ性なら赤色、酸性なら青色になると言われている」
「じゃあ、この下の土壌だけ酸性ってことですよね。なんででしょう」
この場所の主が、花を青くしたくて、酸性の肥料やアルミニウムを含むミョウバンあたりを埋めたのだろうか。だが、なぜここにだけ?
……閃いた。
「死体でも埋まっているんじゃないか」
奴は珍しく目を丸くしていた。面白い。そう思いながら続ける。
「死体を埋めると酸化して、周りの土壌のpHは低くなるのが普通だ」
口角が自然と吊り上がるのが分かった。
「……掘り返してみるか?」
「いいですね。家に戻って、この間使ったシャベルでも持って来ましょうか」
奴はまるで、やまびこのように、俺が望む言葉をそっくりそのまま返してくる。
「は、面白い」
「今更死体を見たって何も驚かないですよ」
こいつを現実に連れ帰ってきてからよく見るようになった、いつもの、見慣れた顔。それも、どこか妖しい笑みが浮かんだ顔だ。
「私たち、同じ地獄に堕ちるんでしょう?」
そうだ。もう既に、俺とお前は共犯者だからな。
邪魔だ。ゴミを捨てるように傘を放り投げる。
水の粒がぱたぱたと忙しく旋毛や肩を叩く。逆さまになった傘が受け皿と化す。
え。
その細い声が俺の耳を掠めるか否か曖昧なとき。奴の薄い顎を掴み、強引に唇を奪った。
奴と目を合わせたまま、唇を食む。奴の唇は多肉植物のようにふっくらとしていて、柔らかい。
細い手が俺の胸元を掴む。力が抜けたように、唇が微かに開く。そこに遠慮無く舌をねじ込む。
「んっ……」
奴の睫毛が恍惚に浸るように微かに閉じられ、華奢な体全体がぶるっと震えた。
俺の肉厚な舌が、白い歯列をなぞり、小さな舌を探り、狭い口内を隈無く蹂躙する。
重なった唇から漏れるふぅ、ふぅという吐息の熱さに興奮したのか、俺の体に指を這わせながら舌を絡め始めた。時折その潤んだ瞳と視線がぶつかるたび、それだけで”いって”しまいそうになる。
あのクソったれな世界であらゆる人間のトラウマに土足で踏み込み、数多の心を奪ってきた女。そんな最低なやつから奪っていいのは俺だけだ。そのはずなのに、未だ真にこいつの心を奪えていない。奪い尽くしたい。どこか飢えたような心持ちになる。
俺は、言うなれば、全てを溶かす強酸だ。紫陽花も青くなって逃げ出すような、酸性。あらゆる人間の警戒心や猜疑心さえ溶かす。なのに、奴はの心の内は簡単にそうならない。そんな芯の通った女だ。俺になら見せてくれてもいいというのに。
形の異なる二つの唇が、透明な吊り橋でつながった。それは重力で崩れ、垂れ下がり、雨の中に消える。
その様子を、ぼうっと眺め、乞うような目で俺を見上げる女。
主人と忠犬は、今は男と女だった。
体の奥が、灼けるように熱い。早くこの熱を冷ましたかった。
奴の骨張った肩をそっと掴む。こんなにも熱に浮かされているのは、きっと俺だけではないだろう。
だが、思考は冷静そのもの。氷のように冷たいままだった。
「お前も」
「お前もあの紫陽花の下に埋めてやろうか」
「初めてなんだ、こんなに長く他人と共に過ごしてるなんて。快でも不快でもない。なのに、逃げ出したくなる」
さっさと逃げ出せばいいのに、なぜかできない。
こんな俺らしくないこと、俺を深く知っているこいつにしか言えなかった。
「これがあと、死ぬまで続くなんて面倒だと思えてきた。面倒だから、無駄なものは全部手放したい」
面倒になってきた。こうやって、こいつに手綱ごと振り回されて無駄足を踏んでいることが。
俺は、こんなんじゃない。俺ばかり。俺ばかり損をしている。俺ばかりが……。
「無駄なものじゃないですよ」
「貴方も私も、物事の感じ方は普通とは違うけど、確実に幸せを手にしてる。人生は死ぬまでの暇つぶしなわけですし、遠回りも悪くないですよ」
こいつを手放せば、全部手放したことになると思って言った、だが、そうだ。手放すわけがない。
こいつは、俺の全てだった。
「私は、貴方と生きたい」
奴の言葉は本当に、俺の深淵を揺さぶってくるような響きを含んでいる。奴は俺のために存在する人間なのではないかとも思う。奴はまるで、真っ二つに裂かれた、一方の半身のようだ。
「俺もだよ」
俺は、こいつと生きたい。
最近、思うことがある。世の中のド底辺どもはどうなのか知ったことではないが、俺たちが二人一緒になったのは、幸せなんてふざけたものを得るためではない。俺が苦しめば、必ずこいつがどうにかする。こいつが苦しめば、俺が暇潰しにどうにかしてやる。こいつとなら、地獄の道を歩んでも構わないと思ったからだ。こいつがいれば、地獄も心地いい。むしろ地獄がちょうどいい。だから、簡単に離してやらないつもりだ。
気付けば、俺のどこまでも続く青い地獄は、既にトーチジンジャーのような鮮烈なピンク色に取り囲まれていたようだ。
「……飽きた。帰るぞ」
「ふふふ、はい」
俺たちは踵を返し、帰路に着いた。
機嫌がいい俺は、奴を傘に入れてやった。傘に溜まっていた雨水が傘の骨を伝ってポタポタと垂れ、俺たちをしとどに濡らす。まあいいだろう。一緒に濡れて帰ろう。それがいい。
「紫陽花の花言葉って知ってるか?」
「『移り気』、とか」
「そうだ。お前は俺の色に染まってればいいんだから。浮気すんじゃねぇぞ」
「あはは、分かってますよ。私、貴方だけに『強い愛情』『辛抱強い愛』を注ぎ続けますから。ね、『冷淡』で『無情』な永至さん」
「『知的』で『神秘的』な、の間違いだろ」
奴が足を止め、俺の手を取る。
「……また来ましょうね」
華奢な両手に挟まれた俺の無骨な手が、奴の薄い腹に触れる。
「今度は、三人で」
「……は?」
「永至さん、家まで競走しましょう!負けた方が勝った方のいうことをなんでもきく、ってことで!よーいドン!」
「は?」
奴がぱしゃぱしゃと足音を立てて走り出す。
くつ。一拍遅れて俺の喉が鳴る。
「『家族団欒』、かよ……」
つくづく面白いやつだ。
俺が勝ったら、そういうことは一番に俺に言うよう言い聞かせてやろう。
俺も堪らず走り出す。
俺は、生まれながらの勝ち組にして、極度の負けず嫌いだ。お前の挑戦、受けて立とう。
いつの間にか雨が上がり、分厚い雲の切れ目から強い日射しが差し込んでいた。
……実際に、あの紫陽花の下に死体は埋まっていたのかって?
さあ、知らないな。