特別な日
2023.12.22
「はい、鐘太さん!あ~ん」
彼女は、俺が大口を開けている様を見たいのか、フォークにもりもりと載せたチョコレートケーキをこちらに差し出してくる。しかしこの、俺が食らいつきに行かないと届かないような、絶妙な間合の取り方……柔道を始めたら、筋が良さそうだな。
……なんて、馬鹿なことを考えている場合じゃない。俺にはとある心配事があった。
「あれ?つれないですね」
フォークをふわふわと揺らして頬を膨らませる彼女が可愛らしくて、胸の奥で渦巻く一抹の不安を、一瞬忘れた。
こんなに可愛らしい女性が目の前にいるのに、上の空でどうする!
俺は、大口を開け、差し出されたチョコレートケーキを一口で頬張った。……とろけるように甘く、美味しい。
「あ、つれた!大物~」
『つれない態度』『獲物が釣れない』の、ダブルミーニングだったのか……。少女のようにはしゃぐ彼女が愛おしすぎて、誇張なしに体がバラバラになりそうだ。
だがしかし、胸につかえた心配事が思考にノイズをもたらす。俺はついに、弱音を彼女に打ち明けることにした。
「律。俺、心配事があるんです……」
「やっぱり。そうだろうと思ってましたよ。市役所を後にしたときから様子が変でしたもん」
「すみません、ううっ……!」
俺は頭を抱えて呻き声を絞り出した。
「誤字・脱字は、ないだろうか……」
どうしよう。
「認印は、掠れていなかっただろうか……」
何か、書き間違えていたら。
「本籍地の記載は、間違っていなかっただろうか……」
一生に一度の大切な日だというのに。
「ああ……!俺もう、不安で、不安で……!」
俺のせいで彼女の足を引っ張ってしまったら、俺は……!
「鐘太さん。不安になってしまう気持ちは分かりますが、落ち着いてください。大丈夫ですから」
「……律」
彼女はリラックスした様子で、俺の髪に触れてくれた。そのまま、俺を闇の中から引っ張り上げてくれるかのように、俺の左手を取った。
「私とお揃いのこの指輪を見てください。貴方と私が『他にないものを作りたい』という選択をして、限られた時間の中でも、素材やデザインを迷いながらも決めていって……実際、今日に間に合ったんですよ。貴方は、選択の連続であるオーダーメイドを避けて既製品を選ぶこともできたのに。貴方が、私たちが。心から望んでいたものを作ることができたんですよ」
……そうだ。俺は。
「鐘太さん、気付いていますか?悩み、迷いながらも、私との未来のため、色んなことを決めていけるようになっているのを。褒めてあげていますか?リドゥから現実に帰ってきて、明らかに変わり始めている自分を」
薬指にあたたかく輝く、ヒイラギをかたどった指輪を見ていたら、両目に熱いものが込み上げてきた。
「……伝わっていますか?貴方のすぐ傍で、幸せを感じている人がいること」
彼女も、目を潤ませていた。リドゥで見せたことのないような、可憐な微笑を浮かべて。
「……俺っ、君と出会えて良かっ、た……!」
「ふふ、私も、です」
俺は彼女に救われた。俺も彼女を救いたい。
彼女が何かに、誰かに守られているとかじゃ駄目だ。俺自身が、彼女を守りたい。
君は俺が守る。絶対に。
突然、テーブルに置いていた俺のスマートフォンが、軽やかな電子音を奏でながら震え出した。
「ひっ!?」
両手で顔を覆う。引っ込みかけた涙が、またじわりと滲んできた。
どうしよう。書類の不備の連絡だったら。怖い。動悸がする。胸が壊れそうだ。
「お、俺は、どど、ど、どうしたら……!」
「鐘太さん」
いつの間にか、俺の傍に歩み寄ってきた彼女が、俺の震え続けるスマートフォンをこちらに差し出していた。その画面には……。
「……あ」
呆気にとられて、震えや涙はおろか、呼吸まで止まりそうになる。
「自分を信じて待っていれば、ほら。心配なんて、いらないんですよ」
「あはは、ホワイト・クリスマス・イブですね!」
「うう、寒い……!本当にこんな寒い中、風祭たちはあそこで待ってくれているんでしょうか……?」
「もちろんですよ。みんなが集まって、お祝いをしてくれるんです。こんなに嬉しいことはないですよね」
真っ白な雪が降る中、俺たちは風祭たちがいる……らしい近くの店まで向かう。急いで上着を羽織っただけで、ノーガードの顔は凍ったように冷たいが、彼女とつないだままの手はあたたかかった。
こんなに親しくなっても、彼女が後悔のないあの世界に来ていた理由を、俺は未だに知らない。
無理に語らなくてもいいし、過去の話を引きだそうとする気もないけど、たった一人で背負い込みすぎないでほしいと思う。これからは2人だ。喜びも悲しみも、半々に分け合おう。
彼女の頭、それに、ホワイトベージュのコートに包まれた華奢な肩に、ホイップクリームのような雪が積もる。
来年のクリスマス・イブ、もとい俺の誕生日は、ショートケーキにしようか。
いや。今日届出をしたから、結婚記念日でもあるのか。
俺は、なんて幸せ者なのだろう。こんな未来……想像もしていなかった。
突然、彼女が一本の木の下で歩みを止める。そのまま俺に向き直って目を閉じ、苺のように赤い唇を突き出してきた。
「おーい、ブッチョ!ゴン太!こっちこっち!」
少し離れた場所から、いくつもの聞き覚えのある声がする。
選択を迷う必要などない。
木の陰で視線を遮るように、俺は彼女にキスをした。
「みんな!久しぶりだね」
何食わぬ顔で帰宅部メンバーに手を振る彼女から少し離れようとしたが、がっちり手を
掴まれて逃げられない。気恥ずかしい中、俺もぎこちなく手を振る。
帰宅部メンバーから浴びせられる生ぬるい視線から逃げるように目を逸らすと、木の上の方には緑色の丸いものがあるのに気付く。これは、鳥の巣……?
「行きましょう!みんな、待ってますよ」
俺は頷いて、彼らの元に向かう。
……なんだろう。何か、心に勇気が宿った気がする。
困難など怖くはない。俺には、打ち勝つという選択肢しか見えないのだ。