サンカヨウ
2024.01.09
ない。ない。どこにもない。
茎がへし折れてしまわないように、力を弱めた両手で草木を何度も掻き分ける。
ずっと肌身離さず持ち歩いていたはずなのに。さっきまで確かにあったのに。
突然鼻がむず痒くなり、手で押さえる前に堪えかね、小さなくしゃみをした。
私に降りかかるのは、いわゆる土砂降りの雨だった。緩く風が吹けば、たとえそれが温くても、服がぴたりと貼り付いた体が芯から冷えていく。
雨粒が何度も視界を這う眼鏡のレンズを通した私の瞳は、きっと怯えて強ばっているだろう。
瞬間、私に降りかかる雨が何かに遮られ、眼鏡の弦や髪から雫が静かに滴った。
「パンドラ……？」
ざあざあと低く鳴る雨の音の中でも、その声はしっかりと聴き取れた。
必死に動かしていた手が、石のように動かなくなってしまった。
「こんな大雨の中、何してんの？風邪ひくよ」
大雨をもたらす黒い雨雲より、来てほしくないものが来た。
立ち上がらずに振り返って睨み付けると、そこにはやはり彼女がいた。
傘の桃色が彼女の髪や肌に薄く反射している。
やっぱり、天性のアイドル様はどんな場所でも輝いてみえるわね。
……本当に、目障り。
「別に。あんたには関係ないでしょ」
歯がカチ、と音を立てる。体が震える。
「もしかして、何かなくしたの？」
心臓がどくりと鳴る。
「違う、わよ」
「もしそうだったら、探すの手伝うけど」
「違う……違うから……」
……やめて。
「さっさと、消えて……！」
「ほら。そういうことしない」
私は、むしゃくしゃして自分の髪をぐしゃりと掴んでいた手に気付く。彼女に手のひらを重ねられて、初めて。
「もう。土とか葉っぱが付いちゃってるじゃん……。せっかく綺麗な髪なのにさ」
彼女が自然な動作で私の髪をささっと払う。
「……緑色の表紙の」
「ん？」
「緑色の表紙の、手帳……」
「ああ。やっぱり。それをなくしたのね」
……どうしよう。私、どうしようもなくなってしまった。
「楽士の活動スケジュールだけじゃなくて、作曲しながらあの人のことをたくさん書き殴ってるページもあって……それで……見られたく……なくて……」
「うん。そうだったのね。初めからそう言ってくれたらよかったのに。いつもの調子で、『手帳なくしただけ。中身は絶対見せないけど、暇なら手伝え』って、ズバッて言ってよね」
「ごめん、なさいっ……」
「いいって。言えたの、すごく偉いよ。あんたって勇気あるよね」
眼鏡の隙間から見た彼女の姿が滲んでいるのは、視力が悪いからだけじゃない。
「はい、これ」
屈んで私と肩を並べる彼女に傘を手渡され、呆気にとられているうちに、彼女は雨に包まれた。
彼女の細い指が、草木を掻き分ける。まるで、先程までの私の草木に対する触れ方を見ていたのかと思うほど、丁寧な調べだった。
「思い当たる場所は大体見た？」
「……見た。ここが、最後」
「流石。あんたのことだから、慌てて闇雲に探したりすることないだろうなって思ってた。あんたのそういうとこ、嫌いじゃないよ」
「わ、私も」
「ん？」
「私も……嫌いじゃ、ない」
「ふふ、自分のいいとこ再確認できた？」
いや、私が、嫌いじゃないと思うのは……他でもない……。
「あっ！」
彼女と私は同時に声を上げた。
大きな花弁を広げた花々の下に、見慣れた緑色があった。
拾い上げてみると、確かに、いつも使っているあの日記帳だった。
「あんまり濡れてないし、目立った汚れもない。花たちが雨から守ってくれてたんだね」
「『草木は嘘をつかない』って、ほんとそうだね」
彼女の、眩しい笑顔を見て、思わず心を射貫かれる。
初めて名もない美しい花を見たような気分になる。
彼女の色の薄い濡れた髪に、向こうの光が透けそうな頬に。唇を寄せてしまいそうになってしまうのはなぜなのだろう。
彼女は、置かれた場所で、どこにでも容易に咲くことができるわけではなかった。それは、彼女が誰も知らないほどの生命力で強く咲く華の一生のうちの、ほんの一部にすぎなかったのだ。私は、そこしか見えていなかった。
深く後悔し、この世界に来て、彼女に会い、私の中で何かが変わりつつある。
未来に息苦しい期待はなくなり、芽吹くような希望が確かにある。
この胸に抱き締めた一冊の日記帳。いや、本棚に収めた過去の日記帳も。嬉しかったこと。悲しかったこと。楽しかったこと。苛立たしかったこと。全てが私を形作っているのだ。
恥ずかしくても、痛くても、苦しくても。それが、私なのだ。
「……ありがとう」
ごめんなさい、はもう言わない。彼女に失礼だ。
「どういたしまして。無事に見つかって良かった」
雨が止み、水溜まりがきらきらと光る中、彼女は踵を返して橋姫御苑を後にしようとしていた。
私は体を覆う桃色の反射光にハッとして、彼女の名前を呼ぶ。
「ああ。じゃあせっかくだから、来週さ……」
楽士としての活動や、草木の世話についてのメモばかりで埋まった私のカレンダー。
その中に、絶対に忘れないであろう大切な予定が一つ。
その日が来るのが、待ち遠しい。
『AM11:00～ 第二庭園でアフタヌーンティー 傘を返す』