あなたしか見えない
2024.05.19
傘の透明なビニール越しに、灰色の空、それに僕の頭上を這う無数の水滴に目をやる。
雨の日は、いつも思い出す。譜面台の向こうの窓から見える雨模様をぼんやりと見つめながら、バイオリンを弾いていたときのことを。雨粒が描く縦の線の軌跡が、まるで僕を捕らえて放さない檻みたいだった。部屋から家、家から庭、庭からさらに外に飛び出して、冷たい雨を一身に浴びながら、何も考えずに立ち尽くしたいような気分だった。でも、自分が一体どんな気持ちでそうするのか……苛立っているからか。悲しいからか。寂しいからか。それについてぐるぐると考えを巡らせることすら惨めな気分になってきて。結局僕は、何もしなかった。
でも、今は違う。
雨の日だって、こうやって自由に出掛けることができる。湿った憂鬱な気分から逃げたり、何も考えずボーッとしたりするためだけじゃない。今みたいに、たまにはコンビニエンスストアに行って新商品をチェックするのもいいな、とか。何かをしたいと思う他愛もない理由さえ、たくさんの分岐点が存在する。誰かが頑として認めないから、とか。誰かはこういう考えだから、とか。そういう自分勝手な理由で、僕の望みが問答無用で手折られることはなくなった。
こんなにも可能性が無限に広がって、やりたいことが芽吹くように湧き出してくるなんて、信じられない。僕には雨さえ、温く感じて仕方がなかった。
「維弦」
雨の中、美しい響きが聞こえた。
視線を移すと、肩の向こう、僕の耳あたり……低い位置に、愛おしい人の微笑があった。
「肩、少し濡れてるよ。風邪引いちゃう。私のことはあまり気にしなくていいからね」
自分の華奢な肩を指差す彼女に見惚れて、僕は自分の肩など少しも気にしないまま言う。
「あんたの肩が濡れないよう気を付けてくれたらそれでいい」
……あんたは、食糧運搬係として、しっかり袋を持つように。
「ふふ。食糧運搬、頑張るよ」
彼女の細い指が軽く掲げたコンビニエンスストアの袋が、かさ、と音を立てる。中でひしめいているのはほぼ、当初買う予定はなかったもの、どうしても食べたいという意見が二人で一致したものばかりだ。でも、こういうのも意外と悪くない。僕たちの必要経費だ。
コンビニエンスストアの店員も、そこに訪れる客たちも、僕のことを特に何も気にしていない。誰も、僕の顔の傷を露骨に気味悪がったりしない。店員は手早くホットスナックを包み、その近くでお菓子を胸に抱き締めた子どもたちがはしゃぐ。みんな、思い思いに日々を生きている。
好意を憎しみに歪めてしまったり。
自分が世界の中心かのように、否定的な過干渉をしたり。
辛うじて血縁の繋がりはあっても、無関心を貫いたり。
気付けば僕の周りの景色は荒れ果て、様変わりしていき、僕は自分の殻に閉じこもることしかできなくなった。
でも、今。僕の周りは、命溢れる緑が豊かに生い茂っている。
彼女も、みんなも。いつもありのままでいてくれる。
僕は、それがどうしようもなく幸せだった。
最近、やっとこのことに気付いた。とてもありふれたことだが、僕はやっと気付けたのだ。
「あっ」
彼女が足を止める。何か、欲しいものを買い忘れたのかと尋ねようとしたが、どうやらそうではないらしい。彼女は口元を綻ばせたまま、何やら上の方を指差す。
透明な傘の向こうに広がる青みがかった空気の中の、鮮やかな赤。僕は思わず、傘を少し退かし、それをしっかりと両の目で見た。
「ブーゲンビリア」
「バーゲン……?」
ぷっと吹き出しながらも、彼女は僕に優しく教えてくれる。
「熱帯に咲くお花なんだよ。この鮮やかな色のところは、花弁じゃなくて、苞って呼ばれる葉っぱが変化したものなの。お花本体は、真ん中の、これ」
目が覚めるような赤い葉の中に、白というか、黄というか、淡い色の小さい部分が三つほど。雨の雫に打たれ、ふるふると小さく可憐に揺れている。なんだか、あの世界で胸に提げていた校章みたいな形だと思った。
「肥料と水を多く与えるような育て方じゃだめなの。枝葉ばかりが茂って、とげが目立って、花がほとんど咲かなくなっちゃうからね」
僕は、この花ほど愛らしくもないけど、この花は少し僕に似ている気がする。
図体も才能も大きく育ったものの、独りでは何もできず、それでも自分に向けられた厚意さえもどこか恐ろしくて、何もかもを刺すように撥ね付けてきた。結果、僕には何もなくて、空っぽで。
「でもね。日の光を当てて、肥料と水やりを加減してあげれば、一年に二、三回も開花してくれるんだよ。私はこの花、大好きなんだ」
太陽が覆われるほど分厚い雲が浮かぶ空の下、僕は日の光のようなあたたかさを感じた。
生きる意味を見失って、枯れてかけていた中、僕はまた花開くことができたのだ。
他でもない、彼女のおかげで。
僕は今、以前よりも強く咲いている。自分は何か変なことをしていないだろうか。そう思って不安になって、胸を張れないときも、彼女の笑顔は変わらず隣で咲いていてくれる。
ここは、日当たりがいい。あたたかい。僕はここが大好きだ。叶うなら、ずっとここに。いや。叶うなら、じゃない。絶対に、ここに。
人通りとか、人の目とか、気にしている場合じゃない。今僕は、こうしたいから。
彼女が濡れないように傘を傾けながら、彼女の体を抱き締める。
少し驚きながらも強く抱き締め返してくれた、彼女の小さな手の温もりを感じる。
どうしよう。
赤色のブーゲンビリアの前に佇む彼女の緑色の残像が瞼に焼き付いて離れない。
彼女は、花に詳しいわけだが、赤色のブーゲンビリアの花言葉なんて尋ねたら、バレてしまうだろうか。僕が、彼女にこの花を贈ろうとしていることが。毎年、この花を贈りたいと思うほど、僕の気持ちが逸ってしまっていることが。
どうしようもない。
僕は、あんたしか見えない。