Bury Me

2024.05.04



奴が、朝食を口に運ぶ手を止めてまで腹を抱えて笑っている。何もおかしいことは言っていないはずだ。最近人間ドックで骨密度検査を受けたことを思い出して、話しただけ。
「女はホルモンの関係で、男に比べて骨粗しょう症が多く見られるらしい。今は若くて健康だけど、油断はするなよ。お前は文字通り、俺と同じ釜の飯を食っているわけだから、栄養面は充分だとして、適度な運動とかをだな」
「ふ、ふふ、な、なんで急に……?」
「急に思い出したんだ。いいだろ」
「多分それ……朝ごはんのせいだと思います」
手元に目をやる。
奴が俺よりも早く起きてオーブンで焼いた、カリカリのラスク。その、空気の通りが良さそうな断面。そうか。どうりで。
「朝から縁起でもないのに、すぐに分かっちゃったのがほんと悔し、ふふっ……」
俺も久しぶりに腹が痛くなった。
いや。そこまで久しぶりでもないかもしれない。


豊かな香りを胸いっぱいに吸い込むようにしてから、コーヒーを飲む。ふと見ると、奴もカップ越しに俺を見つめていた。

朝起きたら最初におはようと出迎えられ、夜眠る前は最後におやすみと送り出される。
俺の人生は、気付けばひとりのものじゃなくなった。
にわかに信じられないものを見ている気分だ。

いつかは、世間一般的に言う重要な他者を持つのもまた一考だとは思っていた。だが、いざ自然な流れでこいつと一緒になってみると、思い描いていた社会的信頼も地位の確立も、単なるお得なおまけのような感じもしてくる。
物心ついた頃から胸にぽっかりと空いたスカスカの穴が、こいつといることで埋まって、密度が増していくのを感じる。そう錯覚しているだけかもしれない。でも、幸福のような曖昧な概念を錯覚し、思いのままにこいつとここまで来たのは事実だから。

「もし俺が先に死んだら、家の庭に墓を建ててくれ」
「もう、ほんとうに縁起でもない……」
「本気だ」
「……うん。分かってますよ。たしかに、おばあちゃんになって足が悪くなってもすぐ貴方に会いにいけるのは、嬉しいですよね」

俺は今どんな顔をしているのだろうか。なぜ朝っぱらからこんな話をしているのだろう。
もしかすると、こいつが俺より先に死ぬことについて考えを巡らせるのが嫌なのかもしれない。

霊園とか、墓地とか。死んで無になった人間の石碑がごちゃごちゃと乱雑に生えていて、気味が悪い。
夏の陽射しで熱くなった墓石に水を掛け、花を生け、誰も食べやしない菓子を供え、虚空に話しかける。決して何にもならないのにも関わらず、それを何年も続ける。
理解できない。なんの利益にもならないのに。馬鹿馬鹿しい。
今まで生きてきて、俺はそういう普通のヤツらとは確実に違うと分かった。
自分の欲望のためならば、法で禁じられた領域にも平気で足を踏み入れる。だが、手を差し伸べてもなんの値打ちもない他者の領域には歩み寄ろうとも思わない。
俺は、愛情を持つことができない。たとえ同じ家系の括り、家族とかいう関係の人間であったとしても、それは特に優遇される事項でもない。
だが、奴と出会って、俺は確実に何かを得た。俺にこんな僥倖が訪れるとは思っていなかった。

もし俺が先に死んだのなら、骨はこの家の庭に埋めて、お前だけが俺の元に訪れてほしい。
普通のヤツらが俺の墓を見て、俺が誰にでも心を開き、誰とでも惰性で付き合うありふれた人間だと思われるのを想像すると。
俺は火葬で軽くなった骨をもう一度灼かれたような、静かな怒りを覚える。

「永至さん」
奴が俺の名前を呼んで、ハッと我に返った。
「もし不幸があって、私が残されてしまうことまで考えてくれるのは嬉しいです。でも、これからの幸せについても一緒に考えていきましょうよ、ね」
その穏やかな顔に釘付けになりながら、うん、と頷くと。
「……こ、子どものことすらまだちゃんと話し合えていないんですから」
悪い。
「えっ、謝っ……!どうしたんですか!?」
……声に出てた。
悪くないと思うけど、悪い。
自分でも何を言っているのか分からないが……。

椅子から立ち上がって、後ろから奴の細い肩を抱いた。
「なんか行きたくない」
「う~ん……?そんなこと言うの珍しいですね……?」
「社員の生活とかクソほどどうでもいい」
「ホラ!社長頑張ってください!家ではそういう本音を言っても許されますけど、一歩外に出たらもう禁止ですよ!」
奴の左手が、ギブアップを訴えるように俺の腕を軽く叩く。薬指のダイヤモンドが朝日を含んで輝く。

結婚記念日の数え方。六十年目は、ダイヤモンド婚式。以前インターネットの記事で目にしたことがある。
当時、記念日に小綺麗な名前をつけるまでしないと結婚生活のモチベーションが上がらないのか、とんだ馬鹿どもだなと心から軽蔑したものだ。
だが今は、俺と奴の日々の積み重ねがまだ『鉄』ですらないことの方が気に入らない。
この小さな『花』が、いつしか強固なダイヤモンドになるのか。
……いいな。悪くない。

朝からよく晴れて部屋がすっかりあたたまっているし、気分もすこぶる良い。
今日もお前のためにがっぽり稼いできてやるから、今はもう少しだけこうさせていてほしい。



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