五月の蠅
2024.06.11
「……五月蠅いな」
手元の本に刻まれた活字から少しも目を離さないまま、俺はそう吐き捨てた。
「え。私、何も言ってないですけど」
もちろん、奴の言う通りだ。奴は普段と何も変わらず、何も語らない。ただ、テーブルを挟んだ向こう側で、頬杖を突いてまっすぐに俺を見ているだけだ。
「視線が五月蠅い」
「えー」
奴は俺の視界の端で困ったように笑いながら立ち上がり、どこかへ消えた。
瞬間、俺の無防備な首に、あたたかいものが巻き付く。片方のか細い五指が、しっかりともう一方の己の腕を掴んでいるのは注視しなくとも分かる。まるで南京錠のようだと思った。
「貴方の方がずっと五月蠅いですよ」
永至さん。
奴が、触れそうな距離のまま、唇を動かす。
ああ……五月蠅い。
こうして俺は、内側からぐずぐずと腐っていく。
「旧暦の五月、今でいう梅雨の時期だ。蠅どもはその間、活動的になって喧しくなる。だから、『五月蠅い』には五月の蠅という漢字が当てられている」
「もちろん知ってますよ」
「まあ、常識か」
「お前は俺にとって、騒々しい蠅でしかねぇよ」
ブンブンと不快な羽音を立てて俺の周りを飛び回るこいつなんて、気まぐれで外に逃してやったっていい。こいつがいなくなれば、楽なんだろう。
「俺はお前のせいで腐っていってる。俺は、こんなところで腐るような人間じゃねぇのに」
息をするように嘘を吐く口から雨粒のように零れた言葉。
俺が俺でないような感覚。腐って、神経が死んでもなお、肉が壊死した部分が鈍く疼く。何もかも、こいつのせいだ。本当に。
……何も言わねぇのかよ。
相槌すらも打たず、ただそこで息をして、ひたすら体温の熱だけを伝えてくるこの女に苛立って仕方がない。
蠅の羽音すら聴き取れない、今。
細い手足が千切れ飛び、中身が散らばるほどの度を超した力を込めて、叩き潰したくなる。
静寂が、五月蠅い。
「腐っても、いいじゃないですか」
奴が、やっと口を開く。
「私は、『平和惚け』のことを『腐る』なんて表現するような捻くれた貴方が好きですよ」
……平和惚け?
俺がか?
「少しくらいダメダメになっちゃっても、いいんですよ。何も恥ずかしくないです」
俺にとっちゃ、毎日が刺激への渇望との闘いだ。
だが、このうんざりするような羽虫がいなければ、俺の毎日はもっとつまらないものになっていただろう。
物心ついてから今まで、ぽっかりと大口を開けていた虚。心の穴。それが、こいつと出会って少しずつ埋まり出した。……再生。と言っていいのだろうか。
この鬱陶しい蝿も、もちろんそれを知っている。
ぽっと出の外野になんて、知られてたまるか。このことを……俺のことを深く知っているのは、こいつだけでいい。こいつだけがいい。俺はそう思う。
お前の言う通り、腐ってもいいんだろう。どうせこの肉体も、いつかは腐って土に還るのだから。
人生なんてものは、数十年かかる壮大な暇潰しだ。その伴侶に、俺はお前を選んだ。
この毎日。まるで、愛とか、情とか。言葉でしか知らない概念のレプリカに触れているようで面白い。俺なりの幸福を感じている。
こんなあたたかい陽射しの中にいて、腐らない方がおかしい。お前と一緒にいたら、頭から足の爪先まで全部腐っちまう。
「俺と腐り果てていこう、律」
クサいセリフだ。文字通り腐臭が漂うかのような。
「はい。これからも、『穏やかに』暮らしていきましょうね」
そんなにわざとらしく言われなくても、善処するつもりだよ。俺は。だって、今俺は独りで突っ走っているわけじゃない。
ああ、五月蝿いな、全く。
逃げられないようにきつく抱き締め、食むようにその唇を塞いだ。