paws
2024.12.20
最近、新たに気付いたことがある。
俺は、常に靴音を立てないように歩いている。……らしい。
これは意識してやっているわけじゃない。職業柄……長い時間を掛けてしっかりと身体に染み付いてしまったものだと思う。革靴を履いていても、まるで硬い靴底が柔い肉球になってしまったかのように歩みを進めてしまうのだ。
普通に生活しているだけで、いつの間にか足音が消えている。意識してわざとらしい音を鳴らすのもみっともないし……この癖を直すにはどうしたらいいのだろう。リドゥにいる間だけは、本当に……直したい。心から。
俺は、毎朝部長くんに挨拶をするたびに彼女をびっくりさせてしまうのは、もうやめたいんだ……。
今日こそは驚かせてしまわないといいな。そう祈りながら、辺りを見回して見慣れた部長くんの背中を探す。
……あれ?おかしいな。今日は欠席だろうか。
その瞬間、俺に向かって躊躇うことなく真っ直ぐに近付いてくる一つの足音が聞こえてきたのに気付いたが、今日の俺はそちらを見るのをぐっと堪えてみることにした。
足音が俺のすぐ傍で止まった。心臓の鼓動が早くなる。彼女に直接触れてもいないのに、なんだか日向にいるようなあたたかさをじんわりと感じる。
俺から先に挨拶しないというだけで、彼女はこんなに近くに来てくれるのか。こんなに……他の帰宅部員や、能登くんよりも、近くに……。
……完全に挨拶をするタイミングを見失った。彼女も、この謎多き無言の時間に巻き込まれてしまって困惑してしまっていることだろう。本当に申し訳ない。
挨拶なんて、風紀委員として……彼女の先輩として見本となることを意識してさえいれば、声や胸を張るのも容易いのに。今朝の俺はなんだか変だ。
彼女は一体俺をどう思っているのか、なんて考えが止まらない。俺は、風紀委員、君の先輩、帰宅部員……そういう要素を少しずつ取っ払っていくと、君の中の俺は、一体どんな存在なのか、知りたい。なんて……。思ったり。
俺の中の君は、もちろん……。
「鐘太先輩。おはようございます」
彼女の存在を背後に感じていたから何も驚かないはずなのに、彼女の凜々しい声を聴くと途端に胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
「今日は私から先に挨拶できて嬉しいです」
振り返ると、学び舎に射し込む日の光に照らされた彼女が穏やかな微笑を浮かべていた。
「おはようございます。部長くん……」
俺は吸い込まれるように彼女の両手を握り締めていた。両手でしっかりと触れたのはこれが初めてだった。華奢で、細くて、あたたかい両手だ。
「何か今日の挨拶は、情熱的……ですね?」
嗚呼、好きだ。
毎朝挨拶で驚かされても嫌な顔ひとつせず、俺の引き攣れた後悔の傷跡に寄り添い、この世界で共に闘っててくれる彼女が、俺の中で大切な存在にならないわけはなかった。俺が、彼女を護りたい。一緒に現実に帰りたい。そのあともずっと、傍にいられたら……。
「これからも毎朝、誰よりも先に俺に挨拶して、欲……」
……!?
思っていたことが口からするりと滑り落ちてしまい膝から崩れ落ちそうになった。顔面がこんがりと焼き上がりそうだ。
「あっ違、決して違わないけどちが、あの、ああ~っ」
「もちろんですよ」
「現実に帰っても、よろしくお願いしますね」
えっ……えっ……!?
握った手を犬の首輪につながったリードのようにぐっと引っ張られ、俺はつんのめるように歩き出す。
「ちょっ!ど、どこに行くんですか!?」
「今日の鐘太先輩、ちょっと変で心配なので、念のため三年の教室まで送っていってあげます」
いや、なんか、俺の気持ちが通じたのか、通じてないのか、イマイチ分からない!
半分冗談のように取られたような気もするし、お互いの想いが通じ合った喜びを露わにしてくれているような気もする。
今すぐ彼女に真意を確認したい。だが、校舎内に人が増えて、彼らが生温かい目で俺たちを見る中では、不可能……!
俺の方が歩くのも速く、歩幅も大きいはずなのに、彼女の歩くペースに合わせて歩くこと……それが幸せで堪らない。これからも、こうやって歩けたら。
気が付くと、俺の靴音は恥ずかしいくらい大きく鳴っていた。