黄昏時の紫煙
2020.04.30 2020.05.04
大型犬が走り回っても問題ないほど広々としたベランダで、手摺りに肘と背中を預けながら煙草の煙を吐き出す。屋根の上の空は薄暗い藍色からオレンジ色の美しいグラデーションになっていたが、重たげな雲が渦巻いていて、陰鬱な気分になる。だから、俺はそれらに背を向け、カーテンが閉められた掃き出し窓の下から漏れ出す人工的な光を見つめていた。
朱く小さな炎が、指に挟んだ煙草をみるみるうちに灰に変えていく。一人でいるときくらい、奴のことは一切考えたくはない。しかし、俺は自分と奴を無意識にそれに重ねてしまう。心底うんざりする。
この俺こそが、奴の全てを焼き尽くす炎だ。奴は言うまでも無く、俺に浸食され骨の芯まで焦がされ、灰になる側なのだ。例え奴が灰になり、存在がこの世から消え去っても、俺は決して揺らがない。そう思っていた。
だが、今はどうだ?
奴の存在が、日に日に俺の中で大きくなる。それはまさに、空まで立ち上る真っ赤な炎のように。征服欲、支配欲…様々な欲望で満たされているはずの俺の胸は、風穴が空いたように空虚だ。焼け残った建物の梁の間を冷たい風が吹き抜けていくように、虚無が次々と流し込まれていく。息ができないほどに。
欲しいものは手に入った。だが、それが完璧に自分の思うようにならないことに、酷く苛立つ。何度感情を発露させて喚こうとも、暴れようとも、ドロドロと膿んだ感情は絞り出し切れない。奴をただ閉じ込めておくだけでは駄目だ。もっときつく、血流が止まって肌に青みが差すほどきつく、俺の傍に縛り付けておかなければ。何をしても足りない。満たされない。奴が俺のために紡ぐ言葉を聴いても、心のどこかで頑なにそれを受け入れようとしない俺がいる。
奴の一番近くにいる俺が、奴の全てまでは分からないことに苛立っている?
微塵の愛も執着もないはずの俺が、奴の裏切りを恐れて常に奴を監視している?
望むものは全て容易く手に入れてきた俺が、たった一人の女に心を掻き回されている?
馬鹿らしい。反吐が出る。全てを兼ね備えた完璧超人が聞いて呆れる。
こうして俺のため…奴のために思考を巡らせ、無駄な時間を割くたびに、俺はさらに堕落していく。
火の海に沈み、溺れ、無様に藻掻く俺の口に、奴が直接空気を吹き込んでくるような感覚。あるいは、生きながらにして殺されているような感覚。今にも頭がおかしくなりそうだ。
炎に焼かれ、灰に姿を変えつつあるのは、紛れもなく俺だった。
奴こそが、残酷で無慈悲な炎だったのだ。
足元にぼろ、と崩れ落ちた灰の塊を、サンダルを履いた足で虫けらを潰すように踏みにじった。人間らしいくだらない感情も全て、こんな風にぐちゃぐちゃに散らせてしまえたなら清々するのに。
俺が、自我も感情もなく、触れたものを灰にするただの炎だったなら、どんなに幸福だったか。
奴も、意思を持たず何も言わない美しいだけのただの宝石だったなら、この手で躊躇無く燃やすことができたのに。
…気が狂いそうだ。
舌打ちをしながら、携帯型の灰皿に短くなった煙草をぐり、と押し付けた。
シャツの胸ポケットに入れた箱から、また一本煙草を取り出し、ライターで火を点ける。煙が、蛇が地を這うようにうねる。フィルターを介した煙を吸い込み、溜め息を吐くように吐き出す。多幸感をもたらすと言われる煙。それを、肺胞の一つ一つに刷り込むように、胸を膨らませて大きく吸い込んでも、気休めにすらならない。俺の胸の中は、常に奴でつかえている。
息苦しい。
まだ、煙草を吸い始めて日が浅いというのに、喉元が締め付けられるような感じがする。
急に、カーテンの下から漏れ出す光が消えた。華奢な手がカーテンを掻き分け、掃き出し窓を開けるのが見えた。ロングスカートから伸びる白い足を下ろしてサンダルを履き、顔を上げた奴と、目が合う。
全て見透かしているような、色素の薄い瞳が細められた。
奴が、微笑んでいる。
止めろ。これ以上俺の心を乱すな。ただでさえごちゃごちゃで収拾がつかないというのに。
「そんな薄着のままでずっと外にいたら、風邪引いちゃいますよ」
奴がカーテンと掃き出し窓を閉めながら言った。
「もう遅いし、中に入りませんか」
奴が近付いてくる。
「…近寄るな」
出た声は弱々しかった。自分の声だとはとても思えなかった。
奴は一瞬目を丸くして足を止めたが、何もなかったかのように歩き出した。
そして、悪びれもなく言う。
「大丈夫です。私、煙草の匂い、嫌いじゃないので」
その、悪びれる様子もない態度。悪気のない堂々とした顔。
…お前、かなり俺に似てきたな。
煙草を指に挟み直して、喉を鳴らして小さく笑った。今までうだうだ考えていたことが馬鹿馬鹿しくなる。
お前といると本当に、退屈しない。
「何笑ってるんですか?」
気付くと、奴はすぐ目の前まで来ていた。奴は、不思議そうに首を傾げながらも、微笑を絶やさない。
「お前を見ていたら、悩みなんてどうでもよくなったよ」
「へえ…貴方にも悩みなんてあるんですね」
「完璧超人にも悩みはあるものさ、部長君」
「その呼び方、懐かしいです」
奴は、鈴が転がるような声で、ころころと楽しげに笑う。それを俺がたった一人で聞いている。それだけで、この世界には俺とこいつの二人しかいないんじゃないか、とふざけた考えを起こしてしまう。
静かな風に吹かれ、目の前にたなびく煙草の煙を見て、ハッとした。
「煙草の煙の有害性だけはどうにもならないんだ。流石にそれは分かるだろう。俺もしばらくしたら中に入るから、お前はもう引っ込め」
煙草を奴から離れた手に持ち替え、もう片方の手でしっしっ、と追い払うジェスチャーをした。
「えっ?なんでですか?」
奴が呆けたような声を出す。俺もつられて呆けた声を出しそうになった。
「なんでって…お前が体を悪くしたら面倒だからだよ」
「別に…私が病気になったとしても、貴方の手を患わせないで一人でひっそりと死にますよ。安心してください」
奴は、いつもと変わらずに、ただ微笑んでいた。
…何を言っている。そんな、聖母のような笑みを浮かべて。
何をほざいている。
馬鹿が。何勝手に死のうとしてるんだ。
主人の手を患わせない犬は嫌いじゃない。だが、俺の傍にいると誓っておいて勝手に一人で死ぬなんて、死んでも赦さない。輪廻の輪を廻りながら追いかけ回そうとも、赦す刻は永遠に来ることはないだろう。
お前は、それだけ重い契りを交わしたんだ。もう、お前だけは、一生逃がさない。
「お前の死期を決めるのは、病気でも事故でもなく運命でもない…俺だ。分かっているよな?」
奴は、俺が迷惑を被らないようにと思って言ったんだろうが、俺はこいつが今にも俺を置き去りにして死のうとしているように見えて仕方なかった。
駄目だ。どこへも行くな。俺の知らないところへ行くな。俺の腕をすり抜けて悠々自適に逃げるな。死んでも俺以外に殺されるな。
灰皿を出す手間さえ惜しい。夜風で冷えた手から落ちた煙草を、首を切り落としにかかるギロチンの刃のように、力強く踏みつける。
「それとも、今ここで…死ぬか?」
奴の首に両手を巻き付けた。あたたかく、細い首だ。奴の首の後ろで、俺の指が楽々交差している。こんな細く折れそうな部分を強く圧迫するだけで、こいつはあっさりと死ぬのだ。死と常に隣り合わせの、儚い命だ。風に吹かれてすぐに散る花のよう。俺だけのものだ。誰にも奪わせない。
こいつを強く、きつく縛りたい。永遠に解けないように。今の、幸福だと思える瞬間だけを切り取ったまま。
俺のように、苦しめばいい。気が狂いそうな中で藻掻けばいい。俺に助けを乞え。お前を救ってやれるのは、俺だけだ。
「ええ。構いませんよ。貴方が望むなら…」
だが、今にも殺されそうな女は、それでも笑っていた。
その顔を見るだけで、その言葉を聴くだけで、そのあたたかさに触れるだけで、俺はどんどんおかしくなっていく。俺の中の何かが無慈悲に破壊される。俺はこいつに出会って、一体どうなってしまったんだ。お前は一体何なんだ。
もう、同類の俺にも分からない。お前という人間が。
「…お前はどうなんだ」
「…私、ですか?」
「お前の望みは、今ここで死ぬことなのか」
「いえ」
「じゃあ、どうしたいんだ」
「私はまだ、貴方と生きたいです」
…そうだ。
同じなんだ。俺とこいつは。
俺も、こいつを傍に置いて、共に歩みたい…生きていきたいと思っていた。根底にあるのは、ただ、それだけだった。それを歪め、過大解釈し、醜く愚かな思考に囚われていた。
あのクソのような世界で、こいつに出会って、強く惹かれて。これほど傍に引き留めておきたいと強く願った女は、今までにいなかった。きっと、これからも現れないだろう。
そんなこいつが、この手を離してどこかに行ってしまいそうで。ある日忽然と姿を消してしまいそうで。それが今にも現実になりそうなほどにこいつの存在は儚くて。俺はこいつの全てを束縛しようとするたびこいつが分からなくなり、俺の中のこいつの存在は得体の知れないものになっていった。
こいつは、いつも変わらず、俺の隣で微笑んでいてくれていたのに。
俺だけが変わってしまっていたんだ。
…馬鹿は、俺だった。
まさかこいつに気付かされるとはな。本当に、人生何があるか分からない。
形だけでもすまない、と謝りたかったが、奴は俺が悶々としていたことなど知る由も無かったようだった。全く…こいつは。言葉を呑み込んだ。
ありがとう、とも伝えたかったが、なんとなくばつが悪い。またの機会に伝えるとしよう。この言葉も呑み込んだ。
「どうしたんですか?凄く疲れた顔してますよ」
けろっとしている奴の首から手を離して、手摺りに両腕を乗せて突っ伏した。全く。こいつといると、下手な仕事を片付けるよりも疲れる。
「…お前のせいだぞ」
奴の方に向き直ると、奴は変わらずそこに、俺の傍にいた。
「私、何かしちゃいましたか?えっと、ごめんなさい」
「もう許さん。疲れを労え」
「ええ~?よく分からないけど、とりあえず肩揉みとかで許してもらえませんかね…?」
肩揉みか…悪くない。だが…。
煙草を一本取り出して咥え、火を点ける。深く息を吸いながら、片手で奴の腰を抱いた。
「わっ」
煙草を口から離し、口を尖らせ、小さく狼狽える奴の顔に煙を吹き付けた。
今は、お前の全てが欲しい。
お前が確かにそこにいること。俺のために在ること。それを余すことなく感じたい。
煙草の煙が強く香る。
奴は無言のまま、眉間に皺を寄せ、頻繁に瞬きを繰り返したり、しきりに目を擦ったりしている。煙が目に染みるのだろう。顔を洗うような仕草をする小動物みたいで愛嬌がある。思わず煙草を持った手で口元を押さえて笑った。
「…意味分かってやってます?」
凜とした声がした。
目の前の奴が俺を見上げ、巧みに笑っていた。あどけない少女のような顔に、一人の「女」が見える。
背筋がぞくりとした。
俺が選んだ女は、暗い中で光を放つ月のように綺麗だった。まるで俺を導いてくれる道標みたいだ、と思ってしまうほどに。
奴の腰をぐい、と引き寄せ、耳元で囁く。
「お前こそ、どこでそんなことを知った?」
「さあ、どこででしょうね?」
普段は俺の質問を質問で返すことなどない奴が、本当のことを隠しながら優しく笑う。また、こいつを縛り付けたい気持ちが蠢く。しかし、いちいち餓鬼のように喚くのはきりがない。見るに堪えない。目の前のこいつも、そう思っているだろう。
「昔の男の記憶なんざ、俺で上書きしてやろう。もう今後一切、誰にも触れさせないからな」
奴は無言で頷いた。熱い視線を交わせば、もう無駄な言葉はいらないことを知っている、賢い女だ。
馬鹿みたいに楽しもうじゃないか。
二人で地獄に落ちるまで。
火を点けたばかりの煙草を足元に捨て去り、その小さな炎をぐりぐりと踏み消した。