痛いくらいがいい

2020.05.04



頭が割れるように痛い。目の奥もじんじんと痛む。長時間のデスクワークや連日の忙しさのせいだろうか。無意識に眉間に皺が寄り、目つきが悪くなっているのが分かる。
目の前に座る奴にとって、多忙な俺と食事をし、他愛も無いことを話す時間は貴重だ。しかし、そんな片手間にできるような易しいこともおざなりになっていく。テレビの音声すら頭に響いて苛々する。すぐにリモコンを弄ってボリュームを下げた。
どうにか奴の料理を平らげた俺は、ランチョンマットの傍に肘を突き、頭を押さえる。そして、下を向いて目を強く閉じ、痛みが去るのを待った。だが、どうにもズキズキとした痛みは引かない。

「頭、痛いんですか?」
澄んだ声を聞いて目を開けると、奴が俺のすぐ傍に立っていた。頭を押さえた手に、奴の華奢な手が重ねられている。お互いの指に嵌められた指輪が触れ、かちり、と音を立てた。頭に響くはずのその甲高い音は、決して不快ではなく、俺を現実に引き戻すような強さを感じるものだった。
奴が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。まるで、晩年の病床で死出の旅を見送られているようだと思った。

「ああ…悪いが、薬を持ってきてくれ」
「分かりました。すぐ持ってきますからね」
あたたかな手が離れる。奴はリビングを出て、暗い廊下に消えていく。その様子を、痛む頭を押さえつけながら見ていた。

ただの眼精疲労による頭痛だ。大したことじゃない。すぐに治る。そう思うのだが、俺が死んだら奴は…。痛みとそんなくだらないことを結びつけて考えるのが止められない。こんなことで死の存在が身近になるなんて馬鹿らしいと思う。年だろうか、俺も。

そう。当たり前だが、もし俺が何かの手違いで死んだのなら、奴は一人取り残されるのだ。「一生俺についてこい」などと言われながら、死が訪れた一瞬で、あっさりと裏切られるのだ。俺も人だ。人は死んだら無になる。俺の心も体もなかったことになり、奴の手を引いてやることさえできない。
仮に奴がこの世に一人残されるとしても、可哀想、などとは思わない。奴は、強いから。この世に溢れる弱虫どもとは違うから。俺が死んだ後も、奴は勝手に自分なりに生きていくのだろう。

しかし、それでも俺は奴と歩めなかったことを、無に還ってもなお悔やむのではないかと思ってしまう。死んでもなお俺の意思だけが残り、永遠に苦しむ気さえする。それほどまでに、奴は俺の全てに深い爪痕を残したのだ。鬱陶しく、重い爪痕だ。何をしていても痛む。薬などでは到底誤魔化せない痛みだ。うんざりする。だが一方で、この痛みを愛おしく思うときもある。全く、厄介だ。

思考の海に溺れていると、小さな足音がして、奴がリビングに戻ってくる。奴を見ようと眼球を動かしたと同時に、さらに頭が痛む。それでも奴がここに存在することを再確認したかった。別に、何かに怯えている訳ではない。

「お待たせしました。これでよかったですか?」
目の前まで近付いてきた奴の手に握られた頭痛薬の箱を見て、無言で小さく頷いた。なぜか声が出なかった。

「お水持ってきますね」
奴は頭痛薬の箱を机の上に置くと、微笑みながら踵を返し、キッチンに向かう。しばらくすると、すぐに水の入ったコップを手にして戻ってきた。

奴が俺の目の前にコップを置き、椅子を静かに引いてから目の前に座る。
俺を捉えた透明な瞳が、心配そうに細められる。
「お薬飲んで、今日は早く寝ましょうね」
無理をしているかのように笑う。

痛い。頭を押さえる手に力が入り、頭皮に軽く爪を立ててしまう。
目を閉じる。視界から全てが消えても、痛みで眩む俺の世界に、奴だけがいる。奴だけが居座って離れない。
人の痛みなんて分かりたくもない。知るだけ無駄だ。なのにこいつは、あたかも自分も痛みに苦しんでいるかのような顔をしている。こいつも俺のような痛みを感じているのだろうか。

俺とこいつは血を分けたかのような、同じ考えを持つ同類だ。しかし、お互いが皮一枚で隔たれた、全く別な人間なのだ。俺は、こいつをいつまでも引き留めておく必要なんてないはずだ。利用し尽くして、さっさと放ればいい。
しかし、なぜだろう。こいつほど俺を分かってくれる人間は、もうどこにもいない気がする。
だから、奴と在るべきこの時を、失いたくない。

「…はーい、永至さんは、今いくつですかー?」
「…34」
「ふふふ。15歳以上だから、一回3錠ですね」

錠剤が包装されているシートを折り曲げて切り離す音、そして、押し出された錠剤がランチョンマットの上を小さく跳ねる音がした。
はい、どうぞ。そう短く言う声がして、目を開ける。小さな錠剤が、奴が言った通りの数だけ置いてあった。

…待て。こいつ今、俺をガキ扱いしなかったか?

「お前、今なんて言った?」
「えっ、永至さんは今いくつですかー?って言いましたけど…」
やはり聞き間違いではなかったか。全く、この小娘は。図に乗るな。

「お前みたいな小娘にガキ扱いされるような年じゃないだろ、俺は」
「頭痛薬の服用量って年齢で区切られているので、一応年齢を確認しておこうと思いまして」
「俺がこんな図体で15歳以下のガキだったらおかしいだろう。馬鹿か」

「…それと」
奴が頭痛薬のシートを箱にしまうと、俺をまっすぐ見つめながら言った。
「貴方がいくつになるまで一緒にいられるのかな、って考えてしまって」

お前も、俺と同じように死の存在を意識していたのか。
呆気に取られ、奴の顔を見つめることしかできない。思考が、一旦停止する。痛みさえ霞んだ。

「何でもできる完璧超人だって、体に鞭打って無理ばかりしていたら病気になっちゃいますよ。だから健康に気を付けて、あの…」
奴が何かを言い淀んで視線を外す。しかしまた、俺をその瞳に閉じ込める。

「…長生きしてくださいね?」

俺たちがどれだけ心身の健康に気を遣おうとも、この先何も障壁がなくとも、今まで生きてきた年月の差だけは埋まらない。俺はこのままいけばこいつより早く死ぬだろう。そうは分かってる。
だが、こいつが暗に、置いていくなと言っている。それだけで俺は、命に逆らってでも、永く生きられる気さえした。

俺は笑った。痛くても、馬鹿馬鹿しくても、それくらいがいい。
そうだな。長生きしてやるか。こいつのために。

「ああ、そうするよ。お前も、俺に殺されないように慎ましく生きることだな」
「はい。よろしくお願いしますね」

今日も奴は変わらず俺の傍で笑っている。すっかり見慣れたその顔を眺めながら、錠剤を水で流し込んだ。



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