あなたがいれば寂しくない

2020.05.10 2020.07.24



どこに行っても女子生徒に言い寄られるばかりでうんざりし、心が安まるところを求めて彷徨っていたら、足は自然と旧校舎の音楽準備室に向かっていた。

放課後になると、楽器のように個性的で賑やかな音色で満たされる、帰宅部の部室。しかし、今日は部長が定めた帰宅部の部活が休みの日だ。部員は誰一人おらず、嘘のような静けさで満たされていた。

喧噪で溢れていない空間。安心する…そう胸をなで下ろすべきなのに、僕はどこか物哀しさに似た感情を抱えていた。
彼らと協力して現実にさえ帰ることができればいいと思っていたのに、僕はあの賑やかな輪の中にいるのも意外と悪くないと思い始めている。
僕は、今まで友達なんて呼べる人はいなかったから。
ずっと一人で、母の作った箱庭で、愚かしく生き長らえてきたから。

静寂の中に身を置きながら窓の外を見ていると、視界に何か鮮やかな色彩が入り、それが強く興味を引いた。
部長がいつも座っている椅子の近くにある長机の上に、大きな本が置いてあった。

近付いて、それを手に取る。
ずしりとした重量感。ページ数の多さがうかがえる分厚さ。固く厚みのある表紙。表紙を飾る、色や形が様々な花々。
それは、花の図鑑だった。

図鑑の上部から覗くピンクや緑の付箋には、「笙悟」「琴乃さん」「鼓太郎」…。帰宅部員全員の名前が漏らすことなく書かれていた。それぞれのページを開くと、カタルシスエフェクト発動時に僕たちの胸元を飾る花の写真や簡易的な花の説明があり、花言葉の欄はピンクの蛍光ペンで目立つようマークされていた。

僕たち帰宅部だけではなく、他の数百人もの生徒の悩みに真摯に向き合うような優しい彼女のことだ。きっと、僕たちの心を映し出している花を調べて、もっと深くまで僕たちの心に寄り添おうとしてくれているのだろう。改めて、その優しさに感謝したくなった。

もちろん、僕の花もすでに調べてあるようだった。彼女の丸くかわいらしい字で「維弦」と書いてある付箋。それを見て、どこか気恥ずかしいような、喉元がくすぐったいような変な感じがした。

ページを開く。
草原をバックに咲く紫色の花の写真があった。
ラベンダー。
鮮やかな紫色が特徴的なハーブ。常緑性があり、心地よい香りが魅力。
花言葉は、『沈黙』。

付箋を指先でめくってみると、僕の花が掲載されているページがもう一ページあることに気付いた。

ページをめくる。
白、赤、紫色の星形の花の写真があった。
ニコチアナ。別名ハナタバコ。
初夏から秋にかけて、白や赤、紫などの星形の花を咲かせる。
花言葉は、『私は孤独が好き』。

沈黙。私は孤独が好き。
確かに、僕は一人が好きだ。
一人でいれば、誰も傷付かない。誰にも迷惑がかからないから。
どちらも、僕の心を反映したような花だと思い、驚嘆の声を上げそうになる。

早々に本を閉じようとして、手が止まる。
そういえば、帰宅部全員の名前が書かれた付箋の中に、なぜか部長の付箋だけがなかった。
やはり彼女は他人優先で、自分のことなんてどうでもいいと思っているのだろうか。
部長はそれでよくても、僕はそのままじゃいけない気がした。

以前、部長と彼女の花について話したことがあった。彼女は、普段身に付けているループタイの花と、胸元に咲く花は同じだと言っていた。
宙に視線を泳がせ、彼女が話していた花の名前を必死で思い出そうとした。確か、トから始まる花だった。

…トーチジンジャー。

すぐさま図鑑の後ろのページを開き、索引で彼女の花を探す。

見つかったページを開く。
鮮やかなの赤色の花の写真があった。
トーチジンジャー。
高さが3mから4mになる、葉がショウガに似た花。赤色またはピンク色の目立つ花を咲かせる。
花言葉は、『無駄なこと』。

無駄なこと。
躊躇いなく記載されているその言葉に、衝撃を受けた。
彼女は、この世界でみんなを救うことを、無駄だと思い絶望しているのだろうか。
急に、賑やかな彼女の周りから、人の気配が消えていくような感じがした。

嫌だ。
僕は、彼女を僕のように一人にはしたくない。

トーチジンジャーのページを開いたまま、図鑑を長机の上に置く。すぐにソファの上に置いていた鞄に歩み寄り、ペンケースの中からシャープペンシルと消しゴム、そして付箋を取り出した。
また長机に戻り、付箋に部長の名前を書く。漢字は間違えていないだろうか。文字が曲がっていないだろうか。緊張で手が震えて上手く字が書けず、消して、書き直してを何回も繰り返す。

満足できる仕上がりになった付箋をぺたりと貼り付ける。
…しまった。
透明で端に白が差された僕の付箋が、ピンクや緑色の付箋の中で悪目立ちしている。
部長から付箋を借りて、それに書くべきだったか…。そう思いながらトーチジンジャーの写真を指先で撫でる。

こんなことで部長の心に寄り添った気でいるなんて、おこがましい。
それでも僕は、彼女が今胸の内を語らなくとも楽になれるよう、彼女を支えたい。普段、無力で情けない僕が、彼女のためにできることをしてあげたい。そう思う。

突然廊下から軽やかな足音がした。僕は急いで図鑑をパラパラとめくり、ニコチアナのページを開き直した。

ガラ、と音がして、引き戸の隙間から顔を出したのは…他でもない、部長だった。

部長は驚いた様子で部室に入り、後ろ手で引き戸を閉めた。
「あれ、維弦!今日は部活が休みの日なのに。どうしたの?」
どこまでも続く空のように透き通った彼女の瞳が、僕一人だけを映していた。その表情は、柔らかい陽の光のようにあたたかくて。僕はただ、彼女の言葉に気の利いた返しもできず、彼女を見つめることしかできなかった。
こんなにも心臓が胸の内を叩くのは、帰宅部の誰かが来ると思って慌てたからなのか。それとも…。

「あっ!もしかしてお花に興味があるの?」
彼女が僕の目の前にある図鑑を見て微笑んだ。
「花は嫌いじゃない。悩みもなくただ風に揺れていて、羨ましいとは思う」
いつものようにぶっきらぼうで人を寄せ付けないような口調で話してしまう。例え相手が、僕が自分の意思で付けた顔の傷を勲章だと言ってくれた彼女であっても。自分が嫌になってくる。心底うんざりする。僕の動作の一つ一つが、僕の言葉の一つ一つが、常に彼女を傷付けてしまっているのではないか…いつもそう思って苦しくなる。

「ふふふ」
すると、彼女は口元に手を当て、目を細めて笑った。
「…僕は、何か変なことを言ってしまっただろうか?」
彼女の笑顔は、子どもを見つめるような慈愛に満ちたものだった。しかし、少し不安になって、彼女に尋ねる。
「大丈夫。変じゃないよ。ただ、そういう飾らない考え方、維弦らしくて好きだなって思ったの」

好き。
中学時代に、女子生徒から嫌でも聞かされた言葉。僕の考えなんてものは二の次で、どこまでも一方的な想いと共に押し付けられてきた言葉。

そんな忌々しい言葉が、今は嫌じゃない。胸がなぜか少し苦しいが、不快じゃない。それどころか、彼女がこんな僕を受け入れてくれていることが、嬉しかった。

「…ありがとう」
普段、彼女に伝えられなかった言葉が、すんなりと口から出た。これもきっと、彼女のお陰だ。
「どういたしまして!」
彼女が微笑みながら、僕の隣に歩み寄る。花のような澄み切った香りがした。

ニコチアナのページを見つめると、彼女は長い睫毛を伏せながら優しく言った。

「『あなたがいれば寂しくない』」

突然彼女の唇から紡がれた言葉に、胸の奥がきゅ、と苦しくなって、僕は呆気にとられた。

「…知ってる?ニコチアナの花言葉って、『私は孤独が好き』だけじゃないんだよ、ほら」
彼女の細い指が、ページの下部を指し示す。そこには、小さな文字で「その他の花言葉」が紹介されていた。

「ラベンダーも、花言葉は『沈黙』だけじゃないんだよ」
彼女は手慣れた手つきでラベンダーのページを開いた。それだけで、何回も僕の花のページを読んでくれているのではないか…そう思ってしまって、また鼓動が早くなる。この力強く規則的な音が、彼女に聞こえてはいないだろうかと不安になるほどに。

やはりラベンダーのページも下部に記述があった。
「『献身的な愛』…」
思わず、声に出して読み上げる。驚いた。正反対の花言葉を持つ花なんてものがあるんだな。彼女は本当に、僕が知らないことを沢山知っている。

「ね?素敵でしょう」
彼女が、自分のことのように嬉しそうに笑う。
どんな花よりも綺麗だった。

「人は誰でも一人では生きていけないの。だから維弦も無理に一人で頑張らなくてもいいんだよ。維弦が困ってどうしようもなくなったときは、私が助けに行くから」

彼女の言葉は、いつだって僕に勇気をくれる。
でも、彼女は僕よりずっと小さな背中で大きなものを背負いすぎているんじゃないかと思う。

彼女が闘っているのは、戦闘の時だけじゃない。メビウスにいるときは、彼女は常に闘っている。カタルシスエフェクトの武器を振りかざすように、彼女はあらゆる人の心とぶつかって、痛みに向き合おうとしている。彼女は、理想の世界に来てもなお、大きなものを背負って生きているのだ。

僕は戦闘以外で彼女の力になれた試しがない。彼女には、あらゆる面で助けられてばかりだった。
それに、僕は彼女のことをまだ何も知らない。目の前にいる彼女の全てに耳をそばだてて、彼女が纏う空気から彼女の心の動きを感じようとしても、僕はまだこれっぽっちも彼女のことが分からないままだ。

だけど、僅かだけでも彼女の力になりたいと強く思う。
彼女の敵は、僕の敵だから。

図鑑のページをめくろうとする。彼女が僕の心の動きを読み取ってくれたのか、図鑑に載せた手を下ろす。それを確認し、トーチジンジャーのページを開いた。

「現実に帰ったら自分なりに頑張って、できるだけあんたの手を患わせないようにするから」

トーチジンジャーのページの下部には、「あなたを信じます」と記してあった。

「だから、無理に助けに来なくてもいい。ただ僕を信じて…見守っていてくれないか」
普段ならあまり長いこと見ていられない彼女の美しい瞳を、今だけまっすぐに見て言った。

彼女が身動ぎもせずに目を丸くしているから、また何か変なことを言ってしまったかと思い、今の言葉を頭の中で反芻してみる。
変なところはない…はず。

「うん。分かったよ、維弦」
彼女が頬を緩ませて笑った。
帰宅部に普段見せるような穏やかな微笑だったが、それが僕一人に向けられたこと、無力な僕でも彼女のほんの僅かな力になれたことを嬉しく思った。

「そういえばこれ、維弦が書いてくれたの?ありがとう!」
「大したことはしていない」
彼女が、付箋に書かれた自分の名前を愛おしそうに見つめて笑っている。彼女には僕がいて、僕には彼女がいる。僕たちは決して一人じゃない。
それだけで、自然と口元に笑顔が零れるのが分かった。

「…私は、維弦の未来を信じてるからね」
図鑑に掛けた僕の手の上に彼女の華奢な手が重ねられる。
そのあたたかさに、胸が心地よく苦しくなった。

彼女なら僕の顔の傷を間近で見たとしても、勲章だと言って変わらず受け入れてくれる気がする。
僕が何度も失敗して何度も彼女を困らせてしまったとしても、全て包み込んでくれる気がする。
彼女がいれば、どんなことにも向かっていける気がする。

僕の中で、彼女の存在は日に日に大きくなっていっている。
彼女は僕をどう思っているのか全く読めないけど。
これから何が待ち受けているか分からないけど。
それでも僕は彼女の傍にいたい。

「ああ。ありがとう。僕は、あんたがいれば寂しくないよ」
彼女の手の上に自分の手を重ね直す。

僕たちは顔を見合わせて笑い合った。

さあ、帰ろう。
勲章と大切な人が待つ現実じごくへ。



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