無題(未完結)
2020.05.19
ピンポーン。
広いリビングに機械的な電子音が響き渡ったのを聞いて、彼のワイシャツにアイロン掛けをする手を止めた。
来客か。珍しい。
彼と私の2人だけで住むには広すぎるこの豪邸には、応接室なるものが存在する。だが、それが一度も使われていないくらいには、誰かが訪ねてきたためしがない。
今日こそあのだだっ広い部屋も日の目を見るだろうか。
背後に目をやる。いつもよりも早く帰宅した我が家の社長様は、上着を脱ぎ捨て、革張りの黒いソファの上で静かに寝息を立てていた。ここ最近、多忙でぐっすり眠れていなかったようだから、そっとしておこう。
宙に浮かせたままのアイロンの電源を切って専用の台の上に置いて、立ち上がる。
リビングの入り口近くに備え付けられたインターホンへ近付き、ボタンを押す。
液晶に黒いスーツを着た人物が映し出された。その人物の着ている糊がきいているスーツや、しっかりと整えられたオールバックの黒髪を見ると、どうも働き盛りの新社会人のような印象を受けた。
不安げに眉間に皺を寄せ、睫毛を伏せて、両手で真新しいビジネスバッグの持ち手を握り締めている。尋ねる場所を間違えているのではないかと心配になった。
すると一瞬、その人物が決意を固めたようにインターホンのカメラを見た。
強い視線に射貫かれ、思い出す。
私は、その目を知っていた。
静かに玄関に向かう。私の脳裏には彼と同じくらい背の高いあの人のことが、昨日のことのように鮮烈に蘇ってきた。
玄関に辿り着いた私は、土間に降りて靴を履き、意を決して重たいドアを開ける。同時に、新鮮で綺麗な外の空気、そして夕暮れの朱い光がどっと入り込んでくる。
「はい…」
小さな声で応答した。
顔と体をぐっとドアの隙間に近付けて、その人物の全容を視界に捉えようとする。向こうは私のそんな意思を汲んでくれたのか、体を傾けてこちらの様子を覗き込んだ。
視線がぶつかる。今度はカメラ越しではない。
やや気怠げだが、芯の通った思いを感じる目。彼と多くの時間を共にしていた私にはすぐ分かった。
目の前にいるのは、他でもない…笙悟だった。
「笙悟…」
驚きのあまり、声が掠れた。
すると、笙悟は私と目を合わせたまま目を見開き、信じられないといった様子で口元を押さえた。
「律…?」
普段、私を部長と呼んでいた笙悟が、私の名前を呼んだ。彼以外の誰かに名前を呼ばれるのはいつぶりだろうか。
「律、なんでここに…?」
メビウスにいたときの笙悟だったら、ばつが悪くなってすぐに部長と呼び直すところだろう。しかし、今の彼にはそんな余裕さえないようだった。
「メビウスでお前が琵琶坂と、その…親しくしてたみたいだから、あいつなら何か知ってるんじゃないとかと思って来てみたんだ」
どうやら、心配を掛けてしまっていたらしい。それもそのはず。今の私は、彼によって帰宅部員たちとの一切の連絡手段を絶たれていた。要するに、音信不通というやつだ。それも、彼の思し召しだから。
「なんで…なんで…よりによってここにいるんだよ…」
笙悟は、黒髪を後ろに撫で付けた頭を抱え、苦しげな声を絞り出す。それは、単なるメビウスでの「相棒」の身を案じて出した声ではなかった。語尾や声の響きに嫉妬や困惑…その他多くの人間らしい複雑な感情が含まれていた。
メビウスにいるときから、笙悟が私に「相棒」以上の感情を抱いていることはそれとなく分かっていた。
笙悟は優しい。その優しさに触れて感謝の意を伝えても、自分のためにやったことだから、俺のエゴだからと、そう言ってばかりだった。けれど、笙悟の優しさは本物だと私は思う。押しつけがましくなく、どこまでも穏やかな優しさ。きっと、苦しくても情けなくても彼なりに足掻いてきた軌跡が、それを形作っているのだろう。
「質問に答えろよ、律…なんでお前はここにいるのかって聞いてるんだよ」
笙悟がまっすぐに私の目を見つめる。吸い込まれそうな黒い瞳。声は怒りを含んでいたが、決して私を責めているわけではないようだった。
「…あいつに脅されて、ここに閉じ込められてるのか?」
「違うよ。私は自分の意思でここにいるの」
彼がこの場にいないにも関わらずそう言い切った私を見て、笙悟は眉間に皺を寄せて苦しそうな顔をした。
「じゃあ…なんで」
笙悟がおもむろに手を伸ばして、ドアの縁に置いていた私の左手の指に触れた。柔らかな傷口に触れるように力が緩められていた。
「なんで怪我なんてしてんだよ」
どうやら、七分袖の服の袖から、白い包帯が覗いていたようだった。
彼は癇癪を起こして縦横無尽に暴れた後、いつもこうして手当てをしてくれる。だが、それは壊れた玩具に対する同情の意によるものだ。私たちの間に愛なんてものはない。この包帯が要らなくなった頃には、また同じ場所に痣ができるのだろう。
壊して。直して。それが終わりなく無限に続く。まるで無限の名を持つメビウスのようだ、と思う。
「これもあいつにやられたんだろ」
「仕方ないの。彼、たまに癇癪を起こすから」
笙悟が手に僅かに力を込める。
「…お前はどんな理由であれ、あいつを選んだ。その考えは尊重したい。けどよ、お前…怪我までして…そんなのってねぇよ…」
笙悟はくしゃりと顔を歪め、声を震わせて顔を背けた。唇が震えている。今にも泣きそうだ。
私の気持ちに寄り添おうとしてくれているなんて、やっぱり笙悟は優しい。
でも、笙悟の中にこんな私が居座り続けるなんて、悪いから。
「私はそれでもいいの。それがいいの。大丈夫。心配しないで」
心配させまいととびきりの笑顔を作って言ったけど、それでも笙悟は諦めなかった。
私と目を合わせたまま、笙悟は迷うことなく告げた。
「…逃げよう」
予想もしていなかった言葉に驚いて、声さえでなかった。
「俺と逃げよう。あいつが追ってこないところまで。悪いけど、お前を放ってはおけねぇ」
自分を守るために逃げていた彼が、今度は私を守るために逃げようとしてくれている。
「お前は俺のことをどう思ってるかは知らねぇけど、俺はお前のこと…大事だって。守りたいって。そう思ってるから」
笙悟。そこまで私のことを。
ありがとう。でも、ごめんね。
背後で、いくつかのドアをくぐりながら、私を探す足音がした。耳を澄まさなければ分からないような、微かな音だ。しかし、獲物を狙う毒蛇が地面を這ってくるような緊張感が確かに伝わってくる。彼のことだ。私が外の世界からやってきた自分以外の男と顔を合わせているなんて微塵も考えていないのだろう。だから、玄関に足を運ぶのは最後に回しているのだ。
せっかく会えて嬉しかったけど、笙悟には早く帰ってもらわないといけない。そうしないと、私だけじゃなく笙悟にも危険が及ぶだろう。
「ごめん」
笙悟のあたたかな手の中から指を抜き去り、ドアの縁から引きはがすようにそっと押し返す。笙悟は、私のその迷いのない動作に呆気にとられた様子だった。笙悟の力が急激に弱まり、彼の指は簡単に解けていってしまった。
「私のことなんて忘れて」
優しい貴方の中にこんな私が居座り続けるなんて、悪いから。
そんな気持ちを込めて短くそう告げたが、私に想いを寄せている彼には、残酷な意味を含んだ言葉に聞こえただろうか。笙悟は今にもその場に崩れ落ちそうな顔をしていた。
私を探してここに来てくれた彼を。自分なりの道を見出し、必死に生きている笙悟を。強く抱き締めてあげたいとさえ思った。何も中身がない私を深く愛してくれる笙悟と遠くまで逃げてしまうのも悪くはないだろう。
だが、そうしてしまえば、彼が許してはおかない。彼はどこまでも追ってくる。逃げることなどできない。
私は、愛を持つ笙悟と慎ましく歩んで生きていくことよりも、愛を持たない彼と真っ逆さまに地獄に堕ちることを選んだ。その時点で、私は紛れもなく彼と同じ類の人間であることは明白だ。私は笙悟の隣で生きているだけで彼を貶めるに違いない。それなら、彼と二人きりで堕落し、誰にも知られることなく朽ちていった方がいいと思う。
ガチャ。
彼が背後で躊躇うことなくドアを開けた。この場の命の気配が根こそぎ消えていく。
遅かったか。もっと早い段階で、笙悟に「帰って」「放っておいて」「関わらないで」とはっきり言えばよかった。でも、笙悟はそれでも食い下がるだろうし、私の心は笙悟の言葉の数々に揺らぐだろうし…何より彼は監視の手を緩めない。きっとこれは、ある種のさだめなのだ。
彼の粘着質な視線が、頭やうなじ、首、背中…そして、笙悟の手を押しのけ、下ろしかけていた左手に注がれるのを感じる。目の前にいる笙悟が小さく体を震わせ、息を呑むのが分かった。夕暮れの光に照らされた笙悟の肌が、酷く粟だっている。間違いない…鬼の形相の彼に睨まれたのだろう。
笙悟に「逃げて」とさえ言えず、彼に下手な言い訳さえもできず、乾いた喉を潤そうと唾を飲み込む笙悟の喉元をじっと見つめていた。この、別の生き物のように動く喉が、これから永遠に動かなくなることを嫌でも想像してしまう。
夥しいほどの無の音に、耳鳴りがした。嵐の前の静けさ、とはまさにこのことだ。今にも嵐が吹き荒れて、何もかもを無慈悲に奪い去るのだろう。いつもみたいに。空っぽな私からは、何をどれだけ奪っても構わない。でも、未来や可能性が詰まった笙悟からは、何も奪ってほしくはない。そんなことを伝えたところで、彼は一切聴かないし、覚えやしないだろうけど。
「律。お客さんが来たのかい?」
静寂を破ったのは、メビウスにいたときのように取り繕った優しげな彼の声だった。彼はどうやら目の前の男が笙悟であることなど気付いていないらしい。
彼が素早く歩みを進め、玄関から土間に降りる。そして、私のすぐ背後に来て言った。
「はじめまして。もしかして、律のご友人ですか?僕は律の恋人の永至という者です。律がお世話になっております」
すぐに感情を暴発させる彼のことだからすぐに襲いかかってくると思ったが、まるで信用に値しない相手の前でする優しげな態度をとっている。一人称も久しく聞いていない「僕」に変え、しきりに私の下の名前を呼ぶ。私の所有者が誰であるかを知らしめたいのだろう。一方で、その事実を自分に必死に言い聞かせて、自分を落ち着かせているようにも見える。
笙悟は彼の言葉に反応できないほど身を固くしていた。他でもない自分にまっすぐに殺意を向けた人間が、すぐに人格が切り替わるように態度を変えて話し掛けてきたのだから当然だろう。
背中に彼の大きな体躯がぐい、と押し付けられ、肩に這わせるように生暖かい手が置かれる。ゆっくりと彼を見上げた。貼り付けたような笑みを浮かべている彼が、私を見下ろしていた。赤茶色の髪が乱れて肌の上に散り、シャツのボタンはいつもより多く外されていた。
「僕を起こしてくれれば君の代わりに出迎えに行ったのに」
長い睫毛をゆっくりと上下させながら、彼が言う。
起こせるわけがないだろう。もし私ではなく彼が笙悟を出迎えていたら、笙悟は私と話す暇さえ与えられずに殺されていたかもしれないんだから。
「ぐっすり寝ているみたいだったから、起こせなかったんですよ」
「ふふふ、君は優しいね」
その目は笑っておらず、ひたすらに私を監視し続けている。私の出方を待っているのだろうが、同時に私も彼の次なる行動を従順に待っている。笙悟が生きて帰れるかは。私が赦されるかは。私たちの命は。全て、彼に委ねられているのだから。
「それで、どのようなご用件でしょうか?」
肩に置かれた手に力がこもったのが分かった。失せろ、消えろと言いたげなのを隠しきれていない。
すると、目の前で、急にぎりり、という音がした。笙悟が、ビジネスバッグの持ち手を握り締めていたのだ。彼は、もうひるんではいなかった。
笙悟は形の良い眉に皺を寄せ、顔を歪ませていた。きつく結んだ口元から、地鳴りのような呻き声が漏れる。黒い瞳から放たれる芯の通った強い視線は、私の背後に向けられている。
「…琵琶坂!」
堰を切ったように、ドスのきいた声が放たれた。
一瞬、彼の手の力が緩む。今にも笙悟を殴るか、家に引き込んで首でも絞めるのではないかと不安になったが、彼はすぐに目の前の相手が誰だか理解したらしい。
「…ああ、そうか…」
語尾に嘲笑が含まれていた。
「誰かと思ったら…君、佐竹君じゃないか」