暴れる前に深呼吸
2020.05.25 2020.11.06
食器を流しに運びながら彼の方を盗み見る。
「チッ…無能が…ふざけやがって…」
彼は悪態をつきながら腕組みをし、リビング中をぐるぐると忙しく歩き回っている。我が家の社長様は仕事から帰ってきてからずっとあんな調子だ。
まるで家の中に雷が渦巻く暗雲が充満しているような重苦しい気分になる。しかし彼は、一段と荒れているとき以外は、ご飯をちゃんと食べる。現に今も、私が作った夕食をペロリと平らげてくれた。意外と図太いのかもしれない。いや、彼は間違いなく図太いのだ。他人を食い物にしながら何食わぬ顔で生きる彼を、図太いと言わずになんと言うだろうか。
私が何を言っても全く聞かないだろうから、放っておいた方がいいかな。諦めに近い感情を抱きながら、運んだ食器を流しに置く。カチャ、という甲高い音が鳴った後、静寂が訪れる。ドスドスという音が響くほどの彼の大きな足音が止んでいた。
少し離れたところにいる彼を見る。足を止めた彼は、涼しげな目元から美しい鼻梁、薄い唇に至るまで、その綺麗な顔を酷く歪ませて苛立ちを露わにしていた。手のひらに爪が食い込むのではないかと思うほど強く握り締められた拳が、小刻みに震えている。
他人のために無駄なエネルギーを使うなんて、らしくないじゃない。他人に興味も関心も寄せないくせに、普通のニンゲンみたいなことをして。
こうして見ると、彼はまるで子どもだ。自分のことしか考えてなくて、何をしても悪いと思わないところがまさにそれだ。子どもにしては大きいし、子どもよりも扱いが面倒だけど、必死に自分を殺して生きているニンゲンよりよっぽどそれらしいと思ってしまう。
『完璧超人』なんて自負しているけど、貴方は自分が思っているよりずっと不完全よ。
あちらこちらに綻びができて、本来あるべきものがいくつも欠けているから、社会との齟齬が生まれがちになる。でも、彼は自由奔放に生きることを止めない。それが彼の生まれついての性質だから。
彼の一番近くにいる私の役目は、彼のあるがままを受け入れて、陰で支えてあげること。当の本人は支えられている自覚なんてないんだろうけど、それでいい。貴方は私のことを気に留めなくていいの。私が、好きでやってるんだから。
歩みを進め、彼の背後に近付く。神経を逆撫でしないように、ゆっくりと。
全てをねじ伏せるような暴力性を孕む大きな体躯が、今はとても小さく見える。私なんかの前でこんな情けない姿を晒しているのは、無意識なのだろうか。
空いている脇から手を差し入れて、厚みのある体を強く抱き締めた。怒りで体温が高くなっているのか、触れている部分がとても温かい。
「おい、お前…何をしている」
怒りで震えた低い声が、背中に当てた耳の奥まで反響する。すぐに暴れ出すかと思ったけど、意外と大人しい。それとも、私の能動的な行動に動揺してるのかな。
「他人なんかのために一人で悶々としてるのが貴方らしくないなーと思いまして」
「何勝手に俺を理解した気になっている。俺は忙しいんだ。離せ。振り払うぞ」
「どうぞ、お好きなように」
手加減なしに私の右手を掴んだ彼の動きがピタリと止まる。もしかして、薬指に嵌めた指輪に触れて我に返ったのかしら。かわいい人ね、本当に。
暴れないうちに私から動こう。
「そんなにご立腹で、一体どうしたんですか」
「お前に話したところで何の解決にもならん。さっさと離れろ」
社長様は、責任感もないままに多くのものに手を出して、全てを自分の手柄にしようとしがちだ。きっと今回もそれが原因で、思うようにいかなかったのかもしれない。思いの丈を私に話すだけでも楽になると思ったけど、話したくないならいいか。
「そうですか。じゃあ、深呼吸でもして落ち着きましょう…ね?」
「犬の分際で俺に命令するな」
「命令じゃありません。提案ですよ、提案」
腕に力を入れてぎゅう、と抱き締める。思えば、こんなに密着するのは久しぶりだ。
「はい…吸って~」
振り払われる覚悟で言う。すると、意外なことに彼が舌打ちをしつつ、大きく息を吸ったのを感じた。幅の広い肩が大きく動き、すう、という鋭い呼吸音を聞く。
呼吸を止めた彼が、体を強ばらせたまま身動ぎ一つせずにいる。そこで初めて、犬の如く私の次なる指示を待っているのだと気付き、自然と口角が上がってしまう。顔が見えなくてよかった。
「…吐いて~」
はあ、とゆったりした速度で息が吐き出される。肩が下がり、全身の力が抜けたのが分かった。
何回か吸って吐いてを繰り返させると、心なしか鼓動や呼吸も穏やかになり、刺々しい雰囲気も和らいだ気がする。
「落ち着きましたか?」
背中を丸め、頭を垂れている彼を見上げる。
すると彼は私の手を弱々しく握り、消え入りそうな声で言った。
「…また、頼む」
彼もきっと、今自分の顔が見えなくてよかったと思っていることだろう。
「お安い御用ですよ」
私は彼の手の上に自分の手を重ねながら、その愛おしい背中に顔を埋めた。