病めるときも、病めるときも

2024.09.17



絶妙に脚を伸ばし切れない狭い浴槽に、いい歳の大人がふたり、お互いの脚を交差させて寿司詰め状態。でもそのおかげでお湯の水位が上がって、鎖骨のあたりまでがぽかぽかとあたたまる。
彼が教えてくれた、八十年代当時のアメリカの発展場について具体的に記している文献。『古い浴槽を置き、夜は何日もそこに寝て小便をかけられるのを待っていたりした』って記述が出てくる本の題名は、……なんだっけ。

白い湯気が揺らぐ浴室。僕と向かい合う彼は、遠くを見やるような目をして指の間の疥癬を弄っていた。彼の体に表われた赤い肉腫が、森林の香りのする新緑色に沈み、茶色く濁って見えた。
『お、あった。そう、これだよ。あまり遠出しなくなって、気分が滅入っていたときに買ったのを思い出したんだ。最後に使ったのは、いつだったかなあ』
うっすら埃を被った入浴剤の箱を手に取る彼の憂いを帯びた横顔を、ふと思い出した。

「大丈夫かい」
優しい声に弾かれたように顔を上げると、濡れた指先が伸びてきて、僕の頬に貼り付いた髪を顔の脇に静かに撫でつけた。
「……のぼせちゃった?」
視線を逸らしたくなるほどの赤色がたわわに実る最中で、まるでもう一人の自分と対話するかのようにその眼を見つめる。無垢な少年のような可愛らしい顔立ち。それに似つかわしくないような、ごつごつとした雄々しい骨格を備えた体。そんな男の人が、微笑をたたえて僕と目を合わせている。

僕は、中学か高校の頃、エイズについて学ぶ機会が確かにあった。
HIVは通常、血液や母乳などの体液には多く分泌されるが、唾液や尿などの体液では、他のヒトに感染させるだけのウイルス量は分泌されない。よって、握手、トイレの共用、そして、一緒にお風呂に入るなどの行為では感染しない。頭ではそれが分かっていた。一切の差別意識を捨てるべきだということが充分に理解できていた。
……それでも、嫌でも考えてしまった。その体液を直接指先で掠れば。そこに自分でも創傷に気付かないほどの些細な傷があれば。死の病に感染してしまう危険性があると。

「ううん。なんでもないよ。大丈夫」
なんとなく異性愛者として生きてきて、深く知ろうともせずに同性愛者を忌み嫌ってきた。
初めて出会った彼の紡ぐ言葉の数々も、にわかに信じがたくて受け付けられなかった。

それなのに僕は、他の誰でもない……彼を理解したくて、彼と無防備にも危険を冒した。

皮膚を隔てた向こう側にある得体の知れないものを畏怖する気持ちを抱えていることが嘘だったかのように、僕は彼の硬く大きな手のひらに頬を擦り寄せた。
もうここには当惑も狼狽も何一つ存在しない。不思議で奇っ怪なつながりが確かにある。 「心配してくれてありがとう」
……僕が、君にのぼせ上がっちゃってるのが、ばれちゃってるかな。

「僕らが初めてシてからもう一週間だね。どう?体調の変化はある?」
普通に生活しているのが不思議に思えるほどに体の具合が悪そうな彼が、何食わぬ顔で聞いてくる。
「うーん……特には」
「そっか。HIV感染の急性期には、熱が出たりだとか下痢をしたりだとかそういう症状が見られるわけだけど、多くの場合二週間から六週間の間だから、これからかもしれないね」
あと一週間かそこらで、僕の体に、感染の実感が湧くような症状が出るかもしれないのか。彼は『ポジるという行為は妊娠と同じなんだ』と言っていたけど、今の僕はまさに妊娠の初期症状が出るのを不安がっている女の人みたいな心境だ。数年から十年以上も産声を上げない場合もあるという点は、妊娠とは違うけど。

「急性期の症状は免疫応答によって数週間で消失して、無症候期というものに移行する。無症候期の間にもHIVは体中で毎日百億個も増殖して、Tリンパ球は次々とHIVに感染し、たったの二日ほどで死滅するんだ。死の病を発症する前段階に過ぎないというのに、ね……」

彼と関係を持った今の僕にとって、全く他人事ではない。むしろ、間違いなく自分の身に起こることを言われている。胸にぐっと差し迫ってくるような怖さがある。それなのに、紛れもなく僕だけを見つめている彼の顔は妖しく紅く、唇を舐める舌先も扇情的で……頭がくらりとキて、呼吸が乱れてしまいそうになる。

「……フランスの思想家ジョルジュ・バタイユを知っているかな?彼は、『エロティシズム』を『小さな死』と表現した」
「小さな死?」
「そう。小さな死。本来禁止されるべき世界に禁忌を犯す形で触れたとき、人間は瞬間的に『生きながらにして死ぬ』至高の状態に達するのだとバタイユは表現した」

「僕らは、粘膜を擦り合わせてイって、生殖細胞も免疫細胞も逝って……言ってしまえば、お互いを殺し合っていくわけだね。人間は一度命を落とせばそこで終わりだけど、僕らは殺害と同じくらい呪われた部分を持つ『性』で、何回でも殺し合えて、深淵より深く至れるというわけだ」

なんておぞましく、恐ろしいのだろうか……。彼は僕に笑みを向けながら、その手で僕の肩に優しくお湯をかけてくれているのに、その温もりから独立したような背筋の冷たささえ覚える。それなのに、僕はどこか興奮し、彼に魅了されている。彼に命を吸い取られてしまいそうな錯覚を覚えるけど、愛おしい人に取り込まれるのなら本望だと思う。




「……痛くない?」
ボディソープをふわふわに泡立てた柔らかいボディタオルで、恐る恐る彼の背中を擦る。布越しに硬い感触が伝わってくる。
「へいき。痛くないよ」
彼は、肩のあたりを擦る僕の手に自分の手を重ねながら、満足げに目を細めた。
「この先、君が傍にいてくれる限り、痛いことなんて何もないよ」
彼の言葉に思わず口角が吊り上がった。

「あ、」
その瞬間、僕とは対照的に、彼は急激に目を潤ませた。
「……みないで」
握り拳で隠され背けられたその顔。大きな悲しみが押し寄せたわけでもなく、まるで思ってもいない僥倖に驚きが隠せないように、自分の中で何かに納得したかのように破顔していた。

「僕は、幸せや平穏が欲しかった。異性愛者を初めとする多数派にとっては生きやすいであろうこの世界の中で、『最善の不幸』を縫うように選択していくうちに、気付いたら危険な領域に足を踏み入れていたんだ」
彼は喉を絞るように震えた声を吐き出した。
「君と話しているときにうっかりぽつりとこぼしてしまった、異性愛者というただそれだけで、当たり前のように感じられる幸せ。お互いを深く愛し合ったら、その先に家族になれる道が確実に続いている安心感。……そんな世間一般の平穏は、僕にとってあまりにも暴力的だったから、僕も多少暴れ回っても赦される、それくらいは赦されないと困ると思った。思ってしまった。でも、幸せや平穏を得るためだったはずなのにいつまでもそれらは訪れなくて、僕はただ危険に取り囲まれ、エイズに染まった幸せ……のようなもので酩酊しているだけ。エイズは僕にとって、破滅的な眩さを持つ光だった。それに心酔してさえいれば、凄惨な現実を直視して目が潰れなくて済む。でも……」

「君と出会って、今まで生きてきて初めて、明確な幸せや平穏を感じるんだ。君と……もっと早く出会えていればな」
僕は視界がぐしゃぐしゃに暈け出して、耐えられなくなって、髪に泡が着くのも構わずに彼の背中に額を埋めた。
「君と、できる限り長く生きて。死ぬまで一緒にいたいと思った」
「僕も、だよ」
僕も、そうに決まってる。
むしろ、そうじゃなかったら一体なんなのさ。

幅の広い彼の肩に腕を回して強く抱き締めると、まだ髪も濡らしていないのに、温い水滴が腕にぽつぽつと降りかかった。



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