愛の病
2024.10.24
彼の白い喉がぐっと隆起し、抗HIV薬を飲み下すのをじっと見ていた。
「今日もおくすり飲めたね。えらいよ」
腕を伸ばして指先で黒い髪をくしゃりと撫でると、彼は口元を緩ませてはにかんだ。
「誰のせいでこんな体になったと思ってるのかなぁ~?」
まあ、いいけど。彼はそう呟いてから一直線に僕の腕の中に飛び込んでくる。彼は少年のように細く華奢な体型ではあるけど、大の大人であることに変わりはない。筋力が弱った重病人の僕の両腕など何の役にも立たず、体ごと押されて後ろに倒れた。
硬く冷たい床の上に叩き付けられるかと思ったけど、そこに敷かれた毛足の長いカーペットともちもちとした質感のクッションが僕らを柔く受け止めてくれた。どちらも、彼とふたりで買い揃えたものだ。胴体にのしかかるあたたかさが背中から抜けていかずに籠もるので、全身がみるみる熱くなってくる。
僕って、こんなに幸せになって、いいんだろうか。
彼はあのとき、『時間が許す限り、君と長く生きていきたい。だから、僕はエイズを発症する前に抗HIV療法を受けるよ』と言った。それを聞いて僕は、誰かのためにそこまでするなんて、変なひとだと思ってしまった。訂正する。本当に心から謝罪したい。僕には勿体ないくらい、優しく愛しいひとだ。
白いシャツの裾と茶色のベルトの隙間から覗く白い肌に指を滑り込ませて浮き出た硬い腰骨をなぞると、彼がぴくっとくすぐったそうに身を捩った。
ああ。好きだ。君は僕に全てを捧げてくれているようなものだけど、僕はまだ貪欲に君を求め続けている。
一日一回一錠の薬を、毎日飲む。まるで本当の経口避妊薬みたいだ。
毎日欠かさずきちんと飲み続けないと、HIVが薬に対して耐性を獲得して、薬が効かなくなる。彼はあんなに小さな錠剤に、健常者と変わらない日常生活を送ることができる権利を掌握されているというわけだ。
もし、僕があの薬を一つ残らず奪い取るか、捨てるかして。もう今後一切飲むなと言ったら。一体、どんな顔をするのかな。
大切なひとを傷付けたくないから、絶対にしないけど。
僕はエイズを発症してから長い。体内のウイルスが体のどの箇所を冒し、これからどこが軋み出すのか、手に取るように分かる。
でも、自分以外の誰かが悲しんだとき、喜んだときに、自分のことのように胸が痛んだり、癒やされたりすることなんて、今まで生きてきて初めてだ。
歪んだ性によって切り拓かれながらも、内側では暗く淀んでいくばかりの僕の世界が、何の障壁もなくなったように感じられる。
僕らはお互いにとって、文字通り、病だ。一生かけても離れられず、最期には何も残さない、極めて残酷な、病。
でも、自然と消えることもなく心身の脆い部分にのさばるものにしか、知り得ないこともある。
ふたつに裂かれた半身と半身をつなぎ合わせ、同じ型の血液が滞りなく全身を巡るように、僕らは当たり前に生きていくのだ。
ああ。幸せだ。
「どうかした?」
ああ、どうかしてるよ。こんな僥倖……未だに信じられないから。
「なんでもないよ」
目の奥にじわりと急速に生まれた熱。睫毛を伏せて笑って、誤魔化した。