受胎告知

2024.12.24



数週間前、下痢や発熱が少し落ち着いた頃を見計らって病院を受診した。検査の結果は陰性だった。
先生には、一緒に住む恋人と感染リスクのある行為をしたことを正直に話した。先生は僕の無防備な行いを咎めることもせず、数週間後に再検査をしようと言ってくれた。
それから数週間後、つまり今日、ついさっき。同じような検査を終えて彼が待つ家に帰ってきた、わけだけど……。

「おかえり!外はすっかりホワイト・クリスマス・イブだね、ノンケくん」
こたつの天板に頬杖をついて窓の外に目をやっていた彼が、少年みたいな笑顔で僕に笑いかけてくれる。あの日、あの教室で初めて会ったときと同じ、白のタンクトップと派手な青紫色の短パン……ではなく、グレーのニットと黒のパンツを身に着けて、ちゃんとあったかい格好をしている。僕しか知り得ないそのありのままの姿にすっかり目を奪われてしまっていて、彼がすぐ傍まで来てくれたことに気付くのに時間を要した。
「あらら。髪にも肩にも、うっすら雪が積もってるよ」
「あれ、ちゃんと外で払ったつもりだったんだけどなぁ」
つめた~、と身を震わせながらも、彼は玄関に立ったままの僕の黒髪や茶色の上着の肩に積もった雪をささっと払ってくれる。手のひらや関節に赤い肉腫が表れた男らしい手。僕は、この手に優しく触れてもらうのが好きだ。
「粉砂糖を振りかけたみたいで、かわいいね」
彼は、心地よさに思わず目を細めてしまう僕を愛おしげに見て、何度も髪を撫でつけてくれる。

「粉砂糖といえば。はい、これ」
「わっ!やった~!ケーキ!」
「『家族がここのケーキおすすめしてくれたんですよ』って言ったら、店員さんが粉砂糖ちょっと多めにサービスしてくれた」
「ほんとに~?うれしいねえ~」
彼はホールケーキが入った小さな白い箱を、大きな手でまるで慈しむみたいに受け取って、コタツの天板にそっと置いた。
……かぞく。
暖房の音に掻き消されそうな小さな声を漏らした唇と、決して寒くないのに赤くなった耳を、僕は見逃さなかった。

「ねえっ!」
「ん?」
「君、『ケーキ買ってくるね』って言って出掛けたわけだけど、所要時間的に絶対他のところにも行ってるよね」
「ファッ!?」
「君から病院特有の匂いがぷんぷんしているぞ!」
「ウーン……」
「マフラーに口元を埋めていても、僕の目は誤魔化せないよ」
何かすごく浮気を問い詰めているみたいな口振りだけど、彼は決して怒ってはいない。むしろ、口元がふわっふわのゆるっゆるだ。渋々マフラーを外した僕の口元ももちろんそうだ。恥ずかしくて、顔から火が出そう。
病院を終えてケーキを買った帰り道、ものすごく絶望に満ちた表情を作って彼の元に帰ってみたら彼はどういう反応を見せるのだろう、とか考えてみた。考えてはみたけど、僕も彼も嘘は吐かない、吐けないタチだ。自分たちを嘘で着飾る必要なんてないのだ。

「……あ、あの、病院行って……どうだったんだい?」
雪が溶けた水滴で濡れた上着をハンガーに掛け、毛足の長いカーペットの上に神妙な面持ちで正座する彼の目の前に、僕も同じように静かに座る。
「え、えっとね」
帰り道、ずっと頭の中で反芻していた言葉を言うときは、今だ。

「陽性、だった」

「この間は陰性だったんだけど、それはウィンドウ陰性だったみたいで。だから再検査して陽性になったらカポジくんに伝えようと思っ」
「うわ~~~っ!」
彼は僕の両肩をガシッと掴んでいつもの子供みたいな笑顔で頬を綻ばせ、僕の背に手を回して抱きついた。
「ウワ~ホントに!?あとでCD4陽性Tリンパ球数とか詳しく聞かせてよ!僕の数値も教えてあげるからさ!」
そんな、恋バナみたいな……。
気付いたら僕の膝は彼の枕にされていた。頭あっついな。興奮しすぎて熱出てるんじゃないの?
「えー……マジ?うわ……」
彼は僕の薄いお腹に額を強く押し付けたまま、急にひたりと動きを止めた。
「やば、涙出てきた」

僕だってそうだよ。
自分でもどうしてか分からないけど、目の奥が熱くなって視界が滲んで止められない。僕も、彼と同じ幸せを感じる。

彼が、目元が濡れたままの顔を僕の方に向け、僕の手を取って頬を擦り寄せた。

「僕、君を心から愛してる。比喩や冗談じゃなく、今まで生きてきた中で、いちばん。人を愛すことで、愛される自分の存在までを認め、愛してあげようなんて気持ちになれるなんて、生まれて初めて知った。君が僕を救ってくれたんだ。いつもありがとう。これからも、ずっと一緒にいてください……」

ああ。幸せだなあ。
鼻も声も詰まってしまって、うわごとのように唇しか動かせない。返事の代わりに彼の体に覆い被さるようにしてキスをした。




ふたりでコタツに入って、食卓を囲む。
「クリスマスベイビーかあ……」
美味しそうにケーキを頬張る彼の瞳は、いつもより黒々と輝いているように見える。
「あっ、これやるの忘れてた。『受胎告知』!」
彼は天使ガブリエルよろしく人差し指と中指を揃えて掲げ、おどけてみせる。
「すごく言いにくいけど、正確にいえば、天使ガブリエルにあたるのは僕がさっき会ってきた病院の先生じゃないかな……?」
「ああ、そっかあ。僕は、そう……君に神の子を身ごもらせた、聖霊にあたる存在なんだね……」
彼はすごく頭が良いけど、まるで親バカを発揮してるみたいにアホになっちゃうときがよくある。まあいっか。そんな可笑しいところも大好きだから。
僕も大きく口を開けてケーキを頬張る。舌が蕩けそうなくらい甘くて美味しい。華やかな香りに癒やされる。僕らは文化的な最低限度の生活が保障されている世帯ではあるけど、こういう贅沢は許されると思う。いや。僕が許すから、彼にはたまには贅沢してほしい。

「これから年が明けてしばらくしたら、障碍者手帳申請手続きしたり、今の職をクローズで続けるかどうかとか、考えたりしなきゃいけないなあ」
「不安かもしれないけど、大丈夫。心配しないで!僕が手取り足取りなんでも教えてあげるよ」
「ありがとう……」

先生から抗HIV薬の話を聴き、これからの治療に想いを巡らせていたら、障碍者手帳の話も出た。そんな早く話が進むのかと驚いたけど、僕の病態はごく低い等級に当てはまらないこともないらしかった。
先生は、彼との生活を続けるうえで、これからも健常者とは違った困難はあるし、医療費の負担減、税金の控除なんかも受けられるから、取っておいて損はないと言ってくれた。なんというか……優しさが沁みた。

「来年は一緒に苔寺に参拝しに行こうよ」
「こけでら?」
「京都にある美しいお寺だよ。事前予約とかも必要なんだけど、写経したり、荘厳な庭園が見られたり、貴重な体験ができるらしい。初めて君と出会ったとき、僕が紹介した文献『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』の著者、エルヴェ・ギベールも訪れたそうだ。彼はそこで、恋人と自分のためにもっと長生きしたいと願ったんだ」
「……いいね!絶対行こう!来年も元気に過ごせるように、僕らも願いをしたためてこようよ」

愛おしい人と歩む道が先まで続いている。それをひしひしと感じられるのが嬉しい。
彼は、同性愛者として生きてきて、異性愛者が当たり前のようにこういう光景を見渡しているのを羨望の眼差しで見て、苦しかっただろうな。
僕はもう、彼にそんな思い決してさせないと誓う。

「ノンケくん。そこはかとなく、お母さんみたいな顔してる」
ケーキを完食したお皿に落としていた視線を上げると、彼は穏やかな顔で笑っていた。
「母子手帳みたいで嬉しいかい?」
「……それ、今言おうと思ってた!うん、嬉しいよ!」
それをいうなら君も。お父さんみたいな顔してる。



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