Poisoning

2024.04.21



掃除機のセールスマンをしていた彼は、素肌に羽織った緑色のケープの結び目を直す。まるで乱れたスーツを整えるような、品のある手つきで。

だがその無骨な手は小刻みに震え、爪先が何度もケープに掠る。
誰も気に留めていない。俺だけが、気付いている。

きゅ、という高い音が、俺の喉元を強く絞めつけた。

「ブラッド!?大丈夫かい!?」
テリーが心配そうな表情で俺の元に駆け寄る。
俺は、静かに嘔吐していた。反射的に口を覆った指の隙間から、さっき食ったばかりの貴重な栄養がだらりとぶら下がって地面へ落ちる。

「おや。飲み過ぎたのかい、ブラッドや。どうか落ち着いてくれ。酒と言えば、こんな話があってな……」
次いで、俺に歩み寄ったナーンの長い話が紡がれるにつれ、吐き気が徐々に楽になってくる。だが、俺のぐちゃぐちゃになった心の中までは、どうにもならなかった。

オランはまだ誰にも言っていない。
俺が、何かあったら使うよう、オランにジョイを渡していたこと。
前回、強力なジョイミュータントとの闘いで、彼がそれを飲んでいたこと。

彼は強く、頼れる弓の名手だ。もしものために彼にジョイ渡しておくことは、極めて合理的な選択だと俺は考えた。実際、前回の闘いでは彼の尽力により誰も命を落とさなかった。
だが俺は、後悔している。反吐が出るほど最低なことをした。

彼は禁断症状に苦しめられ、日々の楽しみだった酒は、ジョイへの渇望を押し流すための道具に成り下がった。
彼はもう、ただの陽気な酒呑みじゃない。
命をかけた闘いの時間より、それを乗り越えた先の未来……その時間の方がずっと長く大切であるはずなのに。俺は……そこまで彼のことを考えてやれなかった。
オランは、こんな穢らわしい薬、飲みたくなかったはずだ。だが、みんなを、俺を死なせないために飲み下した。みんなを護るためならば、ジョイを使うことも厭わない……俺がそんな決意を固められていたならば、こんなことには。

もはや、耐えられない。オランが俺の罪を仲間たちに伝え、俺に失望した全員が束になって、嵐のように俺を責め立ててほしい。
罪の意識に苛まれながら、誰も明確に罰してはくれない。俺にはそれがあまりにも苦しいんだ。

俺が、仲間をコマとして扱う、暴風のような男であればよかったのだろうか。結果的に、数が確保できていればいい。そう思う人間であれば。

……俺は、それにはなり切れない。





ずっと一睡もできないままの俺は、焚き木の近くで眠る3人を残し、離れた場所で新たな火を焚いた。
目を食い縛って、罪の意識に耐える。寒くないはずなのに、体の震えが止まらない。
懐から、道中で拾ったジョイを取り出す。今このドス黒い崖下に、一つ残らず捨ててしまおうか。

「ブラッド」
肩が跳ねる。他でもない、彼の、穏やかな声だった。
「近頃、よく眠れていないみたいだな」
隣に腰掛けた彼を、恐る恐る見る。
「大丈夫か?」
彼の本質は、変わらない。帽子の影から覗く形のいい唇を吊り上げて、少年のように微笑み、自分より俺の身を案じてくれる。
もう、たくさんだ。こんなにできた人間を無碍に扱う俺なんか、躊躇わずに切り捨ててほしいと思う。

「……オラン」
「うん?」
「オラン、俺、は」

彼のそばにいると、まるで鏡を見つめているような錯覚を覚える。
不器用で、家族を上手く愛せなかった。
自分の向かう場所が分からず、藻搔いていた。
大切な仲間であり、俺に似た男。だから、胸の奥の深い場所から、痛みが湧き上がって止まらない。

「謝っても、決して許されない、こと、を」
俺の震える手に、彼の手が重ねられる。
「これ、飲もうとしてたのか?」
鳩尾が冷たくなる。手の中のジョイが、ちゃり、と揺れた。
違う、と言いかけて。
「渇き、苦しみ、辛さ、無力感、愉悦。どれだけそれらにボコボコにされてもコレが飲みたくなる複雑な気持ち。それを分かってくれるのは今、あんただけ……だからさ」
……何も言えなくなった。
「今夜は、一緒に飲もうぜ」

口の中に小さく丸いものが投げ入れられる。ジョイだ。酒が流し込まれ、ついには飲み下す。瓶が歯に当たってカチリと音を立てた。
すぐに、それは訪れた。
久しい感覚が頭からつま先まで、全身を包み込んで離さない。
目の前の彼が、身体にめり込むほどぐっと近付いて、星空より遠くにふっと離れていくような奇妙な感覚。

許してくれ。助けてくれ、俺を。怖い。
許してくれ、許さないでくれ。助けてくれ、助けないでくれ。どこにも行かないでくれ、俺から離れてくれ。
「俺はここにいるぞ、ブラッド」
……全部声に出てた。
涙と涎が溢れて、零れて、止まらない。

彼が、何も言わずに身を寄せて、俺の肩を強く抱く。
脳が冷えているからか、あたたかく感じる。
だが、それが怖くて堪らない。
あたたかささえ怖い。あたたかさでさえ怖くて、俺の心を蝕む。

彼も、ジョイを酒で流し込んだ。
細められた瞳に俺が映り込む。そこに、ジョイのような、目の覚める碧い光の色を感じる。

お互いの唇から絶えず垂れる吐瀉物は七色だ。雨が降らない世界に出現した汚らしい虹。虹なんて、ガキの頃からずっと見ていない。この世界に恵の雨が降って、虹の橋が掛かることがあったとしても、過去はどうにもできない。これからも、良くなることはない。俺がどうしようもないクソ野郎であることは変わらない。虹でさえ塗り潰せない黒い邪悪だ。

大切な仲間の生きるうえでの楽しみを奪い。
やっとの思いで築いても、崩れて。
善い人間ぶっても、下衆に成り下がって。
何もしなくても、何かをしたとしても、この世紀末のように、ただ緩やかに台無しになっていく。

悲劇が巻き起こっている。だがそれは、遠い空から見れば、よく出来た喜劇。俺が、朽ちた舞台で踊り狂っているだけ。
生まれ、疎まれ、得ても失い、ドン底のその下。全てを引っ掻き回し、何も残さず死ぬ。

最低で、最高な気分だ。

彼の手。吐瀉物がざりざりと虹色の地面に塗り付けられ、虹に虹が波紋を描いて溶けていく。
なんだかやけに腹がくすぐったくて、俺は笑う。
彼も、力なく笑った。
彼の腕にぐっと力強く引っ張られ、倒れ込む。下敷きになった彼の体の熱さ、冷たさを感じる。地面が垂れ下がる粘液のように湾曲して、遅く、早く、どこまでも下降していくような感覚がした。
ここには、俺たちしかいない。

不幸で、幸福。

ただ思う。よくも悪くも思う。
俺が、彼に、入れ込んでいなければと。



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